Kenの漫画読み日記。

餅賢次の新旧漫画情報と懐古(郷愁)他雑感

もーれつア太郎

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 不世出の天才ギャグ漫画家と呼んでも過言ではない、赤塚不二夫先生の代表作の一つ、「もーれつア太郎」は、僕は週刊少年サンデー連載リアルタイムで毎週毎週全作読んでます。僕の12歳から14歳までの時期ですね。同時代にアニメ版がテレビで放送されていて僕も見てましたが、熱心に毎週毎週視聴するほどでもなかったと思います。放送期間の後半は見てないんじゃないかな。原作漫画は連載で全編読んだけど。



 「もーれつア太郎」の週刊少年サンデー連載期間は1967年第48号から1970年の第27号までの2年半弱くらいの長期連載ですね。アニメ版のテレビ放送期間は1969年4月から70年12月まで1年9ヶ月くらいの間。アニメ版は第2作が1990年に約9ヶ月間くらい放送されたらしいですね。僕は69年のアニメ第1作は見ましたが、第2作目は見たことありません。第2作の放送があったのも知りませんでした。




 赤塚ギャグ漫画は何てったってユニークな面白キャラクター陣ですね。主人公のア太郎や、サブ主人公のデコっ八やア太郎の父親で幽霊のバツ五郎よりも、脇役の奇妙キテレツなキャラクターたちの方が際立ってましたね。



 ニャロメ、尻尾の生えたタヌキ人間で二人の子分を連れた、スーツ姿のココロのボス、ブタ軍団を率いるブタ松親分、などなど居ますが中でもやっぱり、漫画「もーれつア太郎」の中での一番の大スターは、野良猫のニャロメですね。



 ニャロメは「もーれつア太郎」に登場した最初の頃は普通に猫として漫画に出て来て、ただ「ニャロメ」と一言喋るだけの普通の動物キャラだったんですよね。最初は普通の猫として4本足で立ってたし。その内、人間並みに二足歩行するようになって、人間並みに言葉を喋るようになった。




 「もーれつア太郎」の連載回が進む中で「ア太郎」には外せない人気キャラになり、後半は主役級のキャラになった。



 野良猫-ニャロメは人間よりも人間くさいキャラで、人間の女好きだし俗っぽい欲が強いし、ア太郎やデコっ八にからかわれ、ブタ松親分一派とかココロのボスたちに絡まれて痛めつけられて、傷だらけになりながらも心が折れず負けん気が強い。ど根性猫みたいなトコあるキャラでしたね。




 10年くらい前に僕が別のブログサービスにシリーズで「思い付き断片エッセイ」というのを「あいうえお順」で書き込んでて、そこの「き」の欄でタイトル「キャンタマ」で、ニャロメがよく「キャンタマ」と言ってたのを思い出して、「もーれつア太郎」のことを書き込んでたので、この記事で、「思い付き断片エッセイ」「き」の欄の「キャンタマ」の記事を載せときます。直ぐ下からそのときの記事そっくりそのままです。



 そもそもキ×タマのことをキャンタマと呼ぶようになった元々は、赤塚不二夫が漫画の中でニャロメにキ×タマのことをキャンタマと言わせたからなのかな?



 2015年5月19日付 FC2ブログ「雑想バラエティーライフ」内タイトル「キャンタマ」の記事、まんま載せ。



                  


『 あいうえお…の二行目、上から二つ目、「き」となると、真っ先に頭に浮かぶ言葉は「キャンタマ」。これは不世出の天才ギャグ漫画家、赤塚不二夫先生の造語で、まあ、元の言葉は要するにあの男性の大切な器官だが、赤塚先生が市販雑誌の原稿上でこの言葉を用いるとき、「きん×ま」と露骨に書き込んでしまうと非常に生々しいので、ちょっと語調を変えるというか読み音をユーモラスにカタカナ音にして使った。というか赤塚不二夫の代表作の一つ、「もーれつア太郎」の登場キャラクターで大人気のニャロメに喋らせた。ニャロメは「きん×ま」のことを「キャンタマ」と言っていた。



 「もーれつア太郎」は小学館発行の週刊少年サンデーに、1967年から70年まで連載された、当時の大人気ギャグ漫画ですね。主人公・ア太郎と取り巻きの父親や子分格のデコッ八の他に、アカツカギャグ漫画流儀の、動物か人間か何かよく解らない、個性的なキャラクターが満載で登場するのですが、中でも一応“猫”である、うるさく喋って鼻っ柱の強い個性的なキャラ、ニャロメが漫画お話中で主人公らそっちのけで大活躍し、当時も世間で、このニャロメキャラが大人気でした。「もーれつア太郎」にはタヌキのギャングの“ココロのボス”とか、ニャロメと原っぱの土管で暮らす、毛虫のケムンパスやカエルの“べし”とか居ましたね。まあ、だいたいア太郎の親父も幽霊だし。主要登場人物でまともに人間なのは、ア太郎とその子分、デコッ八くらい。



 まあ、その「もーれつア太郎」の中でも一番の人気者だったのが、一応“猫”のニャロメで、赤塚不二夫先生は作中でそれほどシモネタを使うギャグ漫画家ではないのですが、それでもときどき入るシモネタでは、ニャロメなんかに「キャンタマ」と言わせていた。弱いくせに鼻っ柱と負けん気の強いニャロメが、ギタギタにやられて逃走するときに吐く捨て台詞なんかに、「キャンタマ蹴飛ばしてやるニャロメ!」とか何とか、よく言ってたように記憶するんですが。また、少年時代に赤塚ギャグの洗礼を受けた、70年代80年代活躍したカルチャー文化人なんかが、露骨に「き×たま」と言ってしまうと恥ずかしいから、「キャンタマ」と使ってたような気がするんだけど‥。違ったかな‥(?)。そもそも「き×たま」って、放送禁止用語かな? 何か別に規制なく、TVとかラジオで「き×たま」って普通に言ってるような気もするんだけど(?)。どうかな? 無論、“お××こ”は放送禁止用語ですけど、“チ×ポ”とかはどうなんだろう? また、公共放送と出版物では規制も違いますよね。



 キャンタマで、僕のキャンタマにまつわる思い出というと、僕のミドルティーン時代になりますか。14、15歳当時くらいの思い出かな。5歳まで山々と田んぼと畑ばかりのザ・田舎みたいな地域から、6歳になって地方でも当時はけっこう賑わっていた街中に引っ越して来た僕は、昭和30年代まだまだ総体的に日本人が貧しかった時代、親父が電力会社の会社員だった僕ん家は、比較的裕福な方の家庭だった。だから僕は、小学生時代まで割りと坊ちゃん坊ちゃん育っていた。ところが中一くらいから、だんだんと家が傾いて来た。中一じゃまだまだだったけど、中二の終わりくらいから明らかにウチが貧乏になって来ましたね。



 まあ、全部親父が悪いんだけど。悪いというか、街中の職場にやって来た親父は、一応、当時の電業所の所長身分で、電業所の後ろに隣接した電力会社の社宅に、家族で住んでたんだけど、表の事務所では常に四、五人の部下が居たし、忙しいときは若い社員がいっぱい応援に来てたし、会社員としては親父はけっこう良い待遇で、実際、当時貰ってた給料も、いろんな手当てが着いて一般的な他の勤め人に比べても割と良い給料取りだったんだと思う。



 それが、石炭産業の斜陽化という時代の流れで、親父が一応管轄の電業所が、近隣の石炭会社の撤退で炭鉱閉山に伴い、事務所廃止となった。僕ら家族の住む社宅は、隣接前部の事務所の閉鎖から三、四年は残り、僕が中学卒業時まで家族はその家に住んでましたが、僕が高校入学と同時にその家を出て引っ越し、親父は愛人のもとへと行った。電力会社の元電業所建物と隣接する社宅は、地元のパチンコ業者に売買されたようですね。



 電業所廃止に伴い、親父は電力会社の地域の本部みたいなところへ移動となり、一応、技術指導員という役職が着いたのですが閑職で、当時の昭和40年代半ば頃はまだ、会社員や公務員の定年が55歳の時代で、本部に戻った時点の親父は調度50歳くらいでしたから、閑職とはいえ、あと5年くらい本部まで通っていれば、その間、比較的高給を貰い続け、定年退社で高額な退職金も貰えたんですが。



 ちなみに電業所で仕事していたときは、親父はバイクに乗って現場へ行き、一般住宅や工場や当時の坑内の電気トラブルの修理の仕事をしていました。僕は小学校で教師に疎まれていたし劣等生だったので、例えば図画工作で水彩画を描いても、教室や廊下に貼り出されることはほとんどありませんでしたが、僕が小四の頃、親父が電柱に登って電気工事の仕事をしている絵を描いたら、これが唯一教室の後ろに貼り出されました。絵だとか創作物が貼られたことなんて先ずなかったんで、この一枚だけはよく記憶しています。僕は子供の頃、家の中で毎日漫画を描いていたので、絵は自分なりに得意だと思っていたのですが、先生に疎まれていて、掲示されたことなんてこれ以外一度もありません。



 電業所廃止時期、たまたま世の中全般の交通規制が厳しくなり、戦争傷痍軍人でもある親父は、バイクに乗れなくなった。免許の問題ですね。だから親父も技術指導員という閑職に着いたんでしょうが、定年まで5年くらいの親父に当時、文句を言う人なんか誰も居なかったでしょうから、親父もバス通勤で会社へ行き、夕方5時まで暇を潰して高給貰ってれば良かったんですが。



 僕の家族が、電業所隣接の社宅に住んでた昭和30年代後半から40年代半ばまで、電業所はその前、戦後、昭和30年以前くらいから、地元の商店街の真ん中あたりに立っていました。炭鉱が盛んだった時代、その商店街は日中は人通りが多く、大変賑わっていました。親父は地域住民として、町内会やPTAの役員をしたりして、もともと社交的な親父は、商店街や町や地域の人たちとよく関わっていました。僕は人見知りが強く、どちらかというと非社交的な性格ですが、親父は家族とはあんまり喋らず黙ってましたが、外面が良いというのか、ひとたび外へ出ると、とても社交的でいろんな人たちとよく喋ってました。



  実は、ここから15行くらい、親父の話の続きを書き込んでいたのですが、下書きで記事保存をクリックしてもうまく行かず、何度かクリックを試している内にフリーズ状態になり、FC2ブログが回復したときには、その昔の親父のエピソードの続き15行くらいが、見事に消えてしまっていました。まあ、上の書き込みから先の話は、我が家の黒歴史というか、モロに親父の黒歴史そのもの、という話ですからね。ウチの家の暗く重たい話だし‥。どうしようかな‥。ここはもう、はしょっちゃった方が良いのかな。親父の悪口は、はしょるか‥。



 まあ、僕が15歳になって間もなく、ウチの家は崩壊、親父は愛人の元へ行き、親父以外の家族は、秋冬は寒風吹き込みまくる隙間だらけの、梅雨時はあっちもこっちも盛大に雨漏りしまくる、あばら家に引っ越し、僕は何とか公立高校に進学でき、長男の兄は大学を休学してトラック運転手の仕事に就いた。結婚してから二十五年、働きに出たことのない身体のあんまり強い方でなかった母親は、無理をして肉体労働の仕事に出た。電力会社の家を出てからは、家族は大貧乏の時代でしたね。



 そんな貧乏の折、家族は食べていくのがやっとのような状態で、僕は高校進学したからといって学生服の新調はおろか、普段着も肌着さえも買えませんでした。学生服以外の普段着は親父が昔着ていた作業服で、あとは全て中学一年生くらいまでに買った衣服ばかりでした。着れる服は全部、大学を休学して働きに出てる長男と共用でした。無論、靴下も兄貴と共用です。これで先ず、僕の足は水虫になってしまいました。貧乏で高価な水虫治療薬なぞ買えず、とにかく痒かった。痒くてたまらなかった。



 そして、ここからが“キャンタマ”の話です。靴下ばかりでなく、肌着も共用していた。グンゼの肌着や夏場のTシャツの共用はまだ良かったのですが、パンツの共用でいわゆるインキンタムシが移ってしまった。僕は猛烈にキャンタマが痒くなった。足の裏もしょっちゅう痒かったが、股間も痒くてたまらない。毎晩、布団の中で掻き毟るくらいにキャンタマの皮を掻いてました。多分、学校でも人目に着かないように細心の注意を払って、キャンタマを学生ズボンの上から掻いていたのでしょう。



 大貧乏真っ只中の折、水虫やタムシの治療薬も買えず、多分、病院に掛かった記憶もないから、当時皮膚科にも掛かれなかったんでしょう、僕は足の裏と股間の痒みに毎日耐えていたんだと思います。ある日、僕が、沸かしたばかりの風呂の湯を洗面器に汲んで、もう手が浸けられない熱さのアツアツのお湯に、風呂場で、裸の僕が腰を落として、僕のキャンタマを洗面器の湯に浸そうとしていました。



 このとき、風呂場の板戸を開け放しにしていたので、炊事場の方から見えてました。兄貴が叫びました。「そんなことしたら、キン×マが使い物にならんようになってしまうぞ!」と。風呂場の板戸の間から偶然、兄貴が僕の行動を見ていたんですね。兄貴はこのとき、僕のキャンタマのことを心配してくれたんでしょう。



 毎日お風呂は、この当時から同居していた母方の祖母が、外の釜で薪と石炭でアツアツに沸かしていました。電力会社の社宅時代は、祖母が病気療養して寝ていた一年間以外は、母とは別に暮らしていましたが、亭主の狂ったような放蕩三昧ですっかり精神的に参ってしまった娘を心配して、引っ越してから祖母が同居して、昼の間、洗濯など家事をやってくれてました。祖母が居たお陰で、母は心身両面で随分助かったと思います。



 という訳で、「あいうえお‥」で行った思い付き断片エッセイの「か」行、二番目の「き」は“キャンタマ”でした。僕の「キャンタマ」の思い出。中学でバスケットボール、高校で空手、大学でボクシングとスポーツをやって来たウチの兄貴は、その内何処かで水虫菌もインキンタムシ菌も貰って、自分のパンツの中で培養し保存して、貧乏になって下着の買えなくなった我が家で、靴下とパンツの共用で、僕に水虫とインキンタムシを移したのでした。



 何故だか、この、洗面器の熱湯に自分のキャンタマを浸そうとしている僕に向かって、兄貴が叫んだのが妙に印象深く記憶に残っていて。後々思い出しては、何だか独り笑いしたものでした。16、7歳時の僕も馬鹿で、インキンタムシのカビ菌が熱湯で殺せるとでも思ったんでしょうね。ホント、馬鹿ですね。



 僕の感染したインキンタムシは30歳くらいまでは股間が痒かったけれど、30歳以降は治ったみたいですね。水虫はその後もしぶとく足の裏に生き続けておりますが。最近はナリを潜めておりますけどね。何だかあんまり痒くない。20代と30代に皮膚科に二度くらい掛かっているのですが、インキンタムシは治ったみたいなんですが、足裏の方は何年か前までは、市販の水虫治療薬使ってました。水虫は本当にシブトイものですね。 』 ・・・




                  





 「もーれつア太郎」のこと書いてるというよりも、僕の中学生~高校生時代の黒歴史的思い出を書き込んでるだけですね。「ア太郎」のことはたいして書いてなかった。



 少年時代、「もーれつア太郎」もサンデー誌上で毎回面白く読んでました。都市の市街地の空き地の野っぱらで土管で、ニャロメとべしガエルとケムンパスが三匹で暮らしてるのが、何か良くて、ほのぼの印象に残ってます。「ドラえもん」の中に空き地と土管って出て来ますよね。昭和30年代~40年代には都市の市街地の中にも空き地がいっぱいあって、そこには大きな土管が積まれて置いてあった。住宅街とかにもぽつぽつ広い空き地があって隅に土管があった。昔は空き地で子供たちが、ユニフォームではなくて普段着の私服で草野球やってた。



 僕は何か空き地の野っぱらに置いてある土管でニャロメとべしガエルとケムンパスが暮らす風景というか情景が好きだったんですよね。野良猫とカエルと毛虫というおかしな共同生活ですが。





 今でも空き地はあるでしょうが、特に地方では、言っては悪い気もするけど人口減少して高齢者ばかりになって、かつての活気のなくなった、寂れた感の強い街は、古くなったビルや店舗や家屋を取り壊して更地になったまま、次の建物が立つ予定のない空き地がそこかしこにあると思います。空き地はいっぱいあるが、そこで遊ぶ子供はいない。勿論、積まれた土管も置いてない。



 子供は空き地で普段着の半ズボンで草野球をやらずに、少年野球チームでユニフォームを着てコーチや監督のオジサンが着いて本格的に野球をやる。



 僕なんか球技がヘタクソだったから草野球はあんまりやらなかったけど、高いところが好きだったからよく石垣とかブロック舗装の崖とか登ってた。戸外でけっこう危険なことして遊んでた。今は、山肌の上の崖道を駆けたり、崖を登ってみたりとか、けっこう危険なことを遊びでやってる子供、1人も見ないですね。屋根に登ってる子供も見ないなぁ。今の子供はあんまり馬鹿馬鹿しい遊びをやらないなぁ。ゲームとか家の中主体か学習塾や習い事かなぁ。缶蹴りとか鬼ごっこみたいな遊びはやんないんだろうなぁ。




 ア太郎とデコっ八は子供ながら八百屋を経営して切り盛りして働いて超偉いですが。デコっ八はア太郎の子分かな?弟分?舎弟?ア太郎とデコっ八は一緒に八百屋の家に住んでるみたいだけど、関係性とかもう忘れてるなぁ。やっぱ「もーれつア太郎」はニャロメとココロのボスとブタ松親分とその他ブタだよな。



 赤塚不二夫先生の作品もスターシステムというかキャラ立ちですよね。最初のビッグヒット「おそ松くん」のイヤミとチビ太とデカパン。他にハタ坊やダヨーンのおじさん。この時代は、「おそ松くん」の脇役キャラは、赤塚先生の他の作品にも出てましたね。次が「もーれつア太郎」のニャロメ、ココロのボス他。





 「天才バカボン」の目ん玉つながりの警察官とレレレのおじさん。後半から出て来るウナギイヌ。ウナギイヌは初登場時のラストで鍋になって食べられちゃうのに、その後何度も登場しますが。「バカボン」にはバカボンのパパのバカ田大学の同窓生におかしなキャラがいっぱい出て来ますけど。エピソードごとにその都度、変な人が出て来ますけど。



 「レッツラゴン」のベラマッチャとイラネコ。僕は赤塚ギャグ漫画キャラの中で一番好きなキャラクターは、喋って人間並みに行動する変なクマのベラマッチャです。ベラマッチャの次がニャロメかな。


 


 「もーれつア太郎」のこと書いてると、自分の小六~中二くらいのことをイロイロ思い出して懐かしいな。あの時代の生活、学校の友達。あの時代のテレビ番組や憧れてた女性歌手とか。



 僕の少年時代、各児童漫画誌で赤塚不二夫先生と森田拳次先生のギャグ漫画には笑わせて貰ったなぁ。あの時代、ギャグ漫画の描き手はいっぱい居たけど、一番笑ったギャグ漫画の二大巨頭は赤塚不二夫、森田拳次だな。楽しかった。




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