●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(8)
8.
駅のロータリー周りの歩道を、駐輪場の脇を抜けて大通りの方へ、緩やかな坂道を下ると、真向かいに多数のテナントの入る商業施設ビルが立つ、昔からのアーケード商店街の入り口にぶつかる。この、アーケード屋根が長々と覆う商店街は、先でT字型に別れるが、全長で7、80メートルくらいの距離はある。古い昔からの商店街通りで、アーケードで屋根を覆ってからも、もう50年近くまで経とうとしている。昔は賑わった商店街だったが、今は日中でも客通りは閑散としていて、シャッター通り商店街化してしまっている。
T字角に当たるまで一本道のアーケード通りも、途中には左右に何本も脇道や、狭い路地が出ている。その内の、路地としては割合い、道幅のある通りに面して、居酒屋などの飲み屋や喫茶店らしき店舗が並んでいた。勿論、この通りにはアーケード屋根はなく、露天の普通の通りである。アーケード商店街通りの裏通りは、こちらは昔からの飲み屋街だが、最近はこちらの通りも閑古鳥が泣きっぱなしで、閉店したままの居酒屋や、スナック跡の空店舗が多く見られる。
先程の脇道は、商店街表通りと飲み屋街裏通りを繋ぐ、抜け道的な短い路地だ。表通りも裏通りも、めっきり寂れた感は否めないが。陽の長い夏場でもやがて夜の帳が降りて、シャッター商店街の中の営業している店々も早々と閉めて、通りの明かりはアーケード天上照明の中、ぽつんぽつんと見える、水商売系の店舗から漏れる明かりと看板だけだ。
裏通り、かつて賑わった飲み屋街も、今では、夜の街のネオンも櫛の歯が抜けた状態で、ぽつぽつ灯るのがひときわ寂しさを感じさせる。アーケード街通りと裏通りの間の、橋渡し通りも短い路間に、何軒かの水商売店舗があり、深夜遅くまで営業している。客の賑わいはないが、少ない酔客の奪い合いのような状況で、午前一時二時までも店を開けているようだ。
短い通りの調度真ん中辺りに、一軒の喫茶店が遅い時間まで営業していて、その店の表面の、真っ黒くコーティングされた全面ガラス張りの、広い窓面の直ぐ横に、二階の奥へと上がって行く小さな階段が付いていた。外面の壁だけをビル仕立てに見せた、二階家の民家造りで、外壁の端のネオン看板に、『スナック・亜莉紗』と掲げていた。
二階のスナックの木製の扉が、カランカランと鈴鐘の音と共に開かれ、二人の男が出て来た。扉の内側から、カラオケの音楽と共に音程の狂った男の歌声が、騒音として流れ出る。その騒音に混ざって、ハスキーな女性の声で 「ありがとうねー」 という一言と、別の、同じく女性の可愛らしい声で 「また来てねー」 という一言が、続けて洩れて来た。二人の背中越しの飲み屋サイドの見送り言葉が終わると、直ぐに、スナックの扉が自動ドアのようにバタンと閉じて、カラオケ音楽や店内の喧騒は遮断され、僅かにリズムやメロディーが扉越しに、くぐもって聞こえる程度になった。スナック店内は、防音設備がきちんと施されているのであろう。商店街の店舗の奥や傍は、民家になっている建物ばかりだ。飲み屋の防音設備もちゃんとしていないと、隣近所の住民がうるさいのだろう。実際、飲み屋街の通りも、水商売店舗の建物に混ざって、居酒屋やスナックの裏側など、民家があちこちに点在している。
男二人は、ぶつぶつ文句を言いながら、階段を降りて来た。
「まったく、あのオヤジがヘタっくそな歌で、ビーズなんて歌うから、たまんねーな」
先に階段を降り、路地に立った方が言った。
「はは‥。あのオヤジ、良い気持ちで歌ってっけど、周りで聞かされる方は、気が狂いそうになんのにな」
後から路地に降り立った方が、笑いながら応える。二人とも、Tシャツにブルージーンという軽装で、片や長髪にサンダル履き、もう一方は、短く刈り込んだ頭髪にスニーカーを履いている。両方とも、まだ幼さの残る顔立ちだが、酒が入っているのか、特に頬のあたりが赤く火照っていた。
「まったく、あんな爺ィに歌わせたら、店の営業妨害だろうにさ。他の客が、誰も来ねえよ。ビーズの前に歌ったビートルズなんて、吐きそうになったぜ」
長髪の方が、顰めた顔で、まだ文句を言う。
「はは‥。まァ、いいさ。店を変えようぜ」
スポーツ刈りのような短髪の方が、笑って応え、何歩か、飲み屋街通りの方へ歩き出した。
「おい哲夫。店変えるって、まだ金あんのか?」
長髪の少年が、追って歩く格好になり、訊ねた。
「ちょっと寂しいかな‥」
哲夫と呼ばれた短髪が、応える。
「俺も、そんなに持ってねえ‥。お坊っちゃまに都合して貰おうか?」
「慎吾坊ちゃまか。しかし、もうこんな時間だしな」
「大丈夫じゃねーか。慎吾のことだから、どーせまた、夜遊びの最中だろう」
「最近あいつ、バイクに凝ってるから、バイク乗り回してるかもな」
「中学生のくせに、よく捕まんねえな」
二人の少年は会話しながら、ぶらぶらと、ゆっくり歩いていた。
「そこはそれ、慎吾坊ちゃまの、坊ちゃまたる所以さ。親父の力が、ハンパ無えからな」
「そうだな。慎吾の調達した自動車、俺たちが無免許で乗ってて捕まったとき、あれが結局、ウヤムヤになっちまったからな。慎吾の親父の力だろ。凄エよな」
「ああ。この辺りの警察も役所も、教育委員会も何処も、西崎グループの総帥には、何も言えねえさ」
「ホント、凄エな。慎吾の親父って。俺たちの遊ぶ金も回して貰えるし、慎吾坊ちゃんサマサマだな。まァ、ときどき 『中二のガキが!』 って生意気に思うことあるけど、少しくらいは我慢しねえとな」
「ああ。遊ぶ金だけでも、大きいぜ。お坊ちゃまに、ちょっと電話して見るよ‥」
哲夫が立ち止まり、ジーパンのポケットから、スマートフォンを取り出した。髪の長い方が、哲夫を追い越す形になった。
「そんなの後でいいよ。ゲーセン行ってみようぜ」
長髪の少年は、サンダル履きでペタペタ足音を立てながら、立ち止まったまま電話を掛けようとしている、哲夫をやり過ごして、振り返りながら話して掛けていたが、前方を向いてそのまま、ゆっくり数歩、前に進んだ。
「煙草、無えんだよな。どっかで仕入れねえとなー。ゲーセン行くか、カラオケ行くか。別の店で、また飲むか‥」
長髪の少年はぷらぷらしながら、後ろを振り返らず、前を向いたまま、大きな声で後方へ話し掛ける。
「おい、哲夫。慎吾への電話なんて、後でイイって。俺がまだ、幾らかなら持ってっから‥」
後ろで、立ち止まったまま電話をしているだろう、哲夫に対して呼び掛けた。返事はなく、ピーッと、笛が鳴るような音がする。
怪訝に思った少年が 「何だろう?」 と、後ろを振り返ろうとした時、ドサリと、重い布袋でも落ちた時のような音がした。
振り返り終え、四、五メートル後方に人が倒れている。哲夫だ。重たい布袋が落ちたようなドサリとした音は、哲夫が前のめりに、路面に倒れ込んだ音だった。では、ピーッと鳴った笛の音は?
倒れた哲夫の首のあたりが、パックリと割れて、血が吹き出している。ピーッという笛の音は、哲夫が声を上げようとして、割れた喉から空気が漏れ、声にならなかった音だった。頸動脈から吹き出した血の迸りは、路面に長く、筋を描きながら散っていた。尚も、割れた首からは、ドクドクと血が流れ出している。
茫然と突っ立った長髪の少年が、小声で 「哲夫‥」 と一言、呟き、その後、叫びを上げようと、口を大きく開いた時、その口を柔らかいものが塞いだ。
少年は、両方の目の瞳を思いきり下げて、自分の口を覆うものを見た。濃い、銀灰色の毛がふさふさと生えた、動物の足先? いや、指が長い。獣のように長い毛が密生した、人間の手? 指先には、尖った爪。少年は、何だろう? という疑問と、そして大きな恐怖心が、一斉に湧き起こった。
心臓が、ドキンと一度、大きく脈打ち、「ヒッ!」 っと、くぐもりながらも叫び声を上げた。いつの間にか、肩から首に、もう一方の手が添えられて、頭部が固定されたようで、次の瞬間、口を塞いだ手に力が入り、グッと一捻りされた。ボキンと嫌な音がして、長髪の少年の身体はズルズルとくずおれた。
通りには他に人影はなく、一本の街灯と、何軒かの水商売系の店舗の、電飾ネオンや看板の明かりだけで、夜の薄暗い通りに、ただ、二人の男性の身体がうつ伏せで横たわっていた。
片方の短髪の方は、首のあたりから流れ出た、大量の血が黒く、水溜まりのように、大きな血だまりを作り、そこから少し離れて倒れている、長髪の方は、首が不自然に曲がって横を向いている。倒れている男性は両方とも、両目をカッと大きく見開いていて、ほとんど即死だったことを表していた。
アーケード商店街の方から、一人の男性が歩いて来た。Tシャツ短パンの軽装だが、頭髪の薄くなり掛けた中年男性だ。この辺りの住人か。手に、買い物袋を二つほど提げている。夜の通りの薄闇の中、男性は、倒れている人の姿を見付けて傍に行き、横を向いて明らかに死亡している様子の顔と、その首のあたりから流れ出て、顔や肩の周りに出来ている、血だまりを見て、「ヒイッ」 と短く悲鳴を上げ、腰を抜かしたように尻餅を着いた。
首を回すと、少し離れた位置に、もう一人倒れている。中年男性は勇気を振り絞って、四つん這いで、もう一人の方の、長髪ジーパン姿の傍まで行き、顔を覗き込んだ。一目見て、こっちも死体だと解った。大慌てで起き上がった男性は、転びそうになりながら絶叫し、駆け足で商店街の方へと戻った。アーケードの下まで入っても、駅方向へ尚も走り続け、またつんのめって転びそうになりながら、大声で叫んだ。
「おまわりさん、人殺しーっ!」
表の通りの騒々しさに、通りに面した喫茶店から、中年男性と若い女性が出て来た。マスターとウェイトレスらしい。二人は、目の前にうつ伏せ状に倒れている、二つの動かない男性の姿を見て、直感で “死体” だ、と認めた。女は、両手で口を覆って、無意識に出る自分の悲鳴を抑え、男は慌てて、警察か救急車を呼ぶ電話をするためか、直ぐに喫茶店の中に戻って行った。
* *
外郭が山々で囲む盆地地形の、地方の小さな市の郊外。田畑が広がり、民家がぽつぽつと散在し、遠くに工場や病院の建物らしき影しか見えない、何もない平野に一本走る、幅広の大きな道路。昼間はひっきりなしに車輌が飛ばして走っているが、夜遅くともなると交通量は激減し、たまに大型の貨物車輌が、やはり飛ばして走り去って行く。
ここは、市郊外を抜ける、都市部と地方の各工業団地を結ぶ、産業用重点道路だ。深夜近くともなると、道路の照明も知れているし、散在した民家の明かりも、小さく点在する。片道二車線ある、大きな道路だが、何しろここは田舎の郊外で、ドライブイン的な食堂・レストランやコンビニも、かなりな間隔を開けて点在し、その放つ明かりも小さな点ばかりに過ぎない。月は満月に近い大きさに成長していたが、あいにく雲間に見え隠れしている。全体的に、あたり一面が闇だ。その幅広の道路の両端、直ぐ下は広がる田畑ばかりだ。日中でもほとんど歩行者など居ないであろうと思える、田舎の郊外だが、この産業道路には、何処までも両サイドにちゃんと歩道が設備されている。道路端の寂しい一ヶ所に、電柱と共に街頭が一本立ち、その薄明かりの下、光輪の届くか届かぬかのところ、歩道上に二つ人影があった。
道路端歩道際にバイクを停め、二人の男性が立って話している。二人ともまだ子供の顔で、背格好から中学生くらいの年齢か。バイクの荷台にはヘルメットと上着を置き、二人の少年はどちらもTシャツにジーパン姿だった。
「慎吾、遅せえな」
「ああ。もうちょっとしたら、電話してみるか。電話入れると、怒るかな。メールにしとくか‥」
「メール入れてたろ、さっき。今着いたから、待ってるって‥、さ」
「あいつ、機嫌良くないと、ウルセエとか、怒るからな」
「もうちょっと待ってから、メール入れるか」
「おい、それよかアレ、大丈夫だったんだナ‥」
「何だよ、アレって?」
「だからさ。この前の、市民公園の森の中だよ。サエないオヤジを、ギッタギタにノしちゃったじゃねーか。アレ、事件になってねーよ。新聞にも、何にも載ってねえ。勿論テレビも‥」
「あれから誰か、あそこ行ってみたのかな? 四組の吉川って女子、あいつも、先公とか親にチクらなかったんだろーな。勿論、後能のヤツも。周りの大人も、何にも言わねえし‥」
「あのオヤジも、大丈夫だったんだろ。警察に通報もして無えんだろ。あのオヤジ、態度の割りにゃ、弱かったし。俺たちが、怖かったんじゃねーの。犬に話し掛けたりして、ちょっとアタマおかしかったしナ」
二人の少年は、暗闇の歩道で立ち話のまま、しばらく待っていた。
「慎吾のヤツ、遅せえな。何やってんだろーな? 慎吾が、誘って来たのに‥。慎吾が居ねえと、もしもの時、困るからな。何しろ、みんな無免許だし」
「二輪の免許は、高校生にならないと取れねえからな。高校生って、16歳以上だけど。無免許で乗ってる内は、慎吾と一緒に行動しなきゃ。もしもってコトが、あるからな‥」
「ああ、そうだな。哲夫さんて言ったっけ。時々、慎吾と一緒に居る人」
「ああ。あの、高校中退して遊んでる二人組、な。よく、慎吾んトコの乗用車、乗り回してるよな。まあ、見方に寄っちゃあ、慎吾のお抱え運転手みたいだけどな‥」
「あの人たち、一度、無免許で警察に捕まって、何でもなくて済んだんだってよ。勿論、慎吾も同乗してたらしいけど」
「そりゃあ、慎吾の親父の、西崎グループ総帥の力だったら容易いもんだよ。この地域で、西崎グループの総帥に逆らえるヤツなんざ、市長だってヤクザだってよ居ねえよ」
一人が顔を上げ、道路をこちら側に寄って来る、ヘッドライトの一つの光を、顎をしゃくって指し示しながら言った。
「あれ、慎吾なんじゃねーか?」
「あ、そうだな。慎吾だよ!」
一台のバイクが道路端に寄って来て、電柱と共に立つ、一本の外灯の明かりの輪の端、歩道際で、立ち話を続けていた二人の近くで停まった。
「遅かったね、慎吾君」
待っていた少年の一人が言った。声の掛け方が、上下関係が歴然とした言い方だった。少年は、西崎慎吾に対しては、本人が目の前に居るときと居ないときで、態度が違うようだ。
「ああ。ちょっとナ‥」
西崎慎吾はぶっきらぼうに応え、バイクから歩道へ降り立ち、ヘルメットを脱ぎ、長髪を掻き揚げた。そして、おもむろに上着のブルゾンのポケットから、スマートフォンを取り出した。発信者の名前を見る。
「哲夫だ‥」
慎吾はスマホで、発信者へ返信で電話を掛け、耳に当てた。二人の少年は傍らに立ったまま、黙って慎吾の仕種を見ていた。耳に当てたスマホから、呼び出し音が漏れて来る。何度か鳴って、相手が電話に出ないので、慎吾はスマホを切ってポケットに戻した。
「ちっ。哲夫のヤツ‥。電話掛けて来たくせに、電話に出やしねえ」
慎吾が憤慨して言った。
「慎吾君、あのニートの哲夫?」
イライラした様子の慎吾に、少年の一人が尋いた。
「ああ。あいつらだよ。どーせまた、遊ぶ金が無くなったから、幾らか恵んでくれって、言うんだろう。しょーがねえ奴らだ」
慎吾は吐き棄てるように言った。年上の相手を、自分より格下に見て、馬鹿にしている態度だ。
「じゃあ、県道、ぶっ飛ばして、隣町まで行ってみるか!」
慎吾が威勢良く言うと、二人の少年は、従順なくらい素直に返事して、自分たちが乗って来た、ホンダエイプ100CCの方へと向いた。慎吾も、自分が乗って来た、スズキGSR250CCの方へ戻り、シート後部に載せた、フルフェイスのヘルメットを持ち上げた。慎吾が、三、四メートル離れたところに停まってある、ホンダエイプ100のバイクの元まで行ったであろう、二人に、自分のバイクの傍らから背中越しに、少し大きな声を出して話し掛けた。
「おい。腹減ってねーか? この近くのコンビニ寄って、何か買ってくかあ?」
慎吾は自分の後ろに向かって、フルフェイスのヘルメットを被りながら言ったのだが、返事が無い。慎吾は、同級生ながら、明らかに立場が上の自分の提案の問い掛けに、返事を寄越して来ない、子分扱いのクラスメート二人に対して、怒りを感じながら、振り返った。停車してある、ホンダエイプ100の方を見た。慎吾の視界に居ない。一瞬、そう思った後、視点を下げて、歩道上に一人が倒れているのを見た。
驚いた慎吾は、慌ててヘルメットを脱いで、また、バイクのシートの上に戻し、愛車のスズキGSR250を離れて、うつ伏せに倒れている、子分の方へと歩み寄って行く。怪訝に思い、倒れた身体に、声を掛ける。
「おい、どうした?」
慎吾が、倒れている一人の傍まで行き、見下ろした。うつ伏せの身体の頭部が、不自然に斜め上方を向いている。頭から首を経て、肩から上腕の部分の下に、黒い水溜まりがある。何せ、暗闇の中に、明かりは外灯一本しかなく、しかも、光の真下でもない。慎吾が、自分の身体を幾分屈めて、覗き込むと、首の部分がパックリ割れて、今も、黒い水が吹き出ている。血だ。
「ヒッ‥!」 慎吾が、小さく叫んで、仰け反った。
慎吾は、倒れている子分の少年が、既に死んでいると認めた。歩道上を5、6歩退がると、キョロキョロと辺りを見回した。もう一人は、何処へ行った?
突然、強い力で、両足を後ろに引っ張られた。慎吾は前のめりに、歩道のアスファルトに胸から叩き付けられて、うつ伏せに倒れた。慎吾の両足は、大きな手で強く握られているようだ。後ろへ身体ごと、引き摺り倒されたのだ。そのまま、両足を上方へ持ち上げられ、うつ伏せの慎吾の身体は、海老反り状態だ。かなりの強力な握力で握られ、かなり強い力で、一息で身体ごと逆さに持ち上げられた。慎吾は、逆さ吊り状態になりながら、自分の背後に居る者を、白人プロレスラーのような巨漢を想像した。
だが、背後の者の力は、そんなものではなかった。慎吾は無意識の内に、叫び声を上げていたが、こんな田舎の、深夜に近い時間帯の、産業用道路には、時折ぶっ飛ばして走り抜ける貨物車両があるくらいで、道路端歩道の片隅で起きている、異変に気付く人間なぞ皆無だった。
自分の身体がフワリと浮いて、慎吾がさらに驚嘆した。慎吾の両足首を掴んでいた、何者かの手が離された。ぶん!と、ひと振りで、慎吾の身体は飛んで行き、直ぐ近くの電柱に頭から激突した。歩道端の電柱までは、四メートルもない。慎吾は、ヘルメットを脱がなければ良かった、という後悔をする暇もなく、おそらく、即死だったろう。電柱に頭から当たった、慎吾の身体は反動で、電柱の斜め前方に飛んで、落ちた。
暗闇に落ちたが、そこは、道路端歩道と下の田畑との間の、土手の斜面だ。道路下の田圃は、二メートルくらい下になり、その間の土手は急斜面で、一度そこに落下した慎吾の身体は、雑草で覆われた土手を転がって、田圃端の小さな溝に嵌まった。真夏の水田の稲穂は、もうかなり成長していて、昼間なら一面、緑一色が拡がっているところだが、真っ暗い夜中では、ただの黒い平野だ。
溝の先の田圃の中には、もう一体、人間の身体が倒れていた。稲穂に埋もれて、仰向けに倒れた身体は、微動だにしない。慎吾の子分らしい同級生の、片方だった。やはり首筋が、パックリと割れている。多量の出血があったのだろうが、水田の中では確認できない。上の歩道で首を切られた直後に、田圃に投げ込まれたのだろう。昼間なら、首筋から吹き出した血しぶきが、歩道上に蹟を残しているのが確認できたかも知れない。
爪の伸びた毛むくじゃらの大きな手が、溝に浸かった西崎慎吾の肩を、鷲掴みして、身体ごとヒョイと持ち上げられ、田圃の中に投げ込まれた。慎吾の死体は、同級生の死体の近くに落ちた。稲穂を薙ぎ倒して、猫背の大きな身体が、稲穂に埋もれた、慎吾の死体の傍まで行った。猫背の大きな姿は、雲間に見え隠れする、ほぼ満月に近い薄明かりに、全身に生える体毛が、部分的に反射していた。
反射する体毛の色は、闇の中、銀灰色に見える。顔の部分は異様だった。両耳が尖り、口先が鼻とともに突き出ている。犬か熊のような顔だ。猫背の身体は、まるで四足動物が立ったように見える。全身を、体毛が覆った怪物だった。獣人‥。
闇に、らんらんと光る目。だが、獣の目というより、人間のような目だ。怪物は前屈みに、稲穂の中へ頭を突っ込むと、両の手で、慎吾の遺体の上着を引き裂いた。大きな手は、腕から手の甲へと獣のように毛むくじゃらだが、五本の指は人間のように長い。上半身の胸から腹の肌が露になった、慎吾の死体は、獣の両の手でズボンも引き裂かれ、下腹から大腿までも露になった。獣の手の長い爪が、腹部を裂き、はらわたを引き摺り出した。血しぶきと一緒に、臓物が飛ぶ。怪物の手は、空になった腹部から肋骨の下を探り、心臓を掴み出した。握られた臓器は、大量の血を滴らせながら持ち上げられ、真夏とはいえ、深夜の空気の中では湯気を立てている。
怪物は、犬のような口を開くと、並んだ牙を見せ、そこに握った心臓を放り込み、半分を咬み切った。ジューシーな臓器から、血しぶきが四方に飛ぶ。怪物は、うまそうに咀嚼する。あっという間に、残り半分も食べ終え、今度は、また、肋骨の下から肝臓を掴み出し、同じように食する。引き裂かれた慎吾の上着の端から、電話の呼び出し音が鳴る。誰かが慎吾のスマホに、電話を掛けて来ているのだろう。肝臓を咀嚼する、獣の化け物は、片足で無造作に、ブルゾンの端を踏みにじった。やはり足の甲まで毛が密生し、固そうな爪の尖った、大きな足だった。水田の水で、びちゃびちゃと音がした。スマホは、音を発しなくなった。
怪物は、慎吾の死体の片足を持って、再び、ポイとぶん投げた。水田の水が飛ぶ。多分、内蔵の破片や、体内に残った血液なども一緒に飛んだろう。慎吾の身体は、畦道に落ちて軽く跳ねた。首や手足が不自然に曲がり、まるで布製の大きな、でく人形みたいだ。怪物は、ゆっくりと、稲穂を踏み着けながら水田を歩き、畦道に上がると、妙な形に折れ曲がって表を向いた、慎吾の死体の、剥き出しの片足の太股にかぶり着いた。
* *
ヤマト健康機器産業の本部支店内、営業課に所属する営業係社員、藤村敏数が住んでいるアパートは、都市部中央駅から電車で六つ目になる、私鉄沿線の郊外駅にあった。駅に降り立った城山まるみは、改札を抜けて駅舎を出て、鉄道線路と平行して走る、駅前の通りを歩いた。駅前通りはちょっとした商店街になっていて、そんなに道幅の広い通りではない。一見、大型バス二台が擦れ違うのは先ず、無理なくらいに思える。だが、バス路線が通っているところを見ると、見た目よりは道幅はあるのだろう。だが、大型どおしが擦れ違うのは、運転者のかなりのテクニックが要りそうに思える。
城山まるみは商店街通りを、各商店のウインドーを見向きもせずに、ひたすら歩いていた。夕方の時刻の商店街の人通りは多く、特に夕飯の材料用の買い物なのか、主婦らしき女性が目立つ。目指すは藤村敏数の住む、アパートの部屋。かつて何度も何度も通った部屋。時には一晩泊まって、翌朝には敏数と一緒に家を出た部屋。敏数のために料理を作り、狭いシングルベッドで一緒に寝た部屋。狭い浴室では一緒に入浴は出来なかったが、背中を流しにだけワザワザ半裸姿で、敏数の入浴する浴室に入ったこともある。夜、まるみの作ったおつまみで二人、ビールを飲みながら、テレビのお笑い番組を見て、一緒に笑い転げた部屋。そんなこんなの、敏数との日々の、思い出の詰まった部屋だ。
やがて商店街が途切れたあたりで道路を曲がり、住宅地へと入って行った。夕方の時刻でも、まだまだ当分陽が落ちそうになく思えるくらい、真夏の夕刻は長い。まるみはただひたすら歩いていた。目指す敏数のアパートの部屋には、いろいろな思い出がいっぱいあり、確かにそれらは頭の中にめまぐるしく思い出されているのだが、どうしてか妙に感傷的ではない。本来なら、敏数の方から一方的に、恋人関係を解消されたのだ。今のまるみの心には、悲しみや怒りの感情が渦巻いていて、当然の筈だ。それが、だんだんと距離を縮めて、敏数の居るアパートに近付いて来ているのに、過去の悲しい思い出に対して、そういった人間らしい感情を伴なわない。まるみは冷静であり、妙に感情の動きがなかった。ただ黙々と、目的である、敏数のもとへ行くこと、を淡々と遂行しているのだ。
まるみの頭の中には、敏数のところへ行く、ということしかなく、他は何かボーッとしていて、まるで脳味噌の思考野そのものに、濃い霞でも掛かってしまっているようだった。敏数との数々の思い出も、言ってみれば、まるで、藤村敏数に関する単なる情報の抽出でしかないような感じだった。
今、城山まるみの視界に、住宅地の中に、見覚えのある、藤村敏数の住む、二階建てのアパートが目に入って来た。両目を充血させ、無表情な城山まるみは、まるで、目的遂行だけをプログラムされたロボットのように、機械的に見えた。
※ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編..(9)へと続く。●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編..(9)α - Kenの漫画読み日記。
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