●小説・・「じじごろう伝Ⅰ」狼病編..(29)
29. -狼病編最終回-
今日も晴れ渡っているが、秋も深まり冬が直ぐそこくらいの季節になるとやはり寒い。特に風が冷たかった。大佐渡真理は冬物のボアブルゾンを羽織り、下は相変わらずジーンズ姿だった。寒いのでジーンズの下はスパッツを穿いている。
真理の住むT市の隣接市のI市は県下の中堅都市で、少子高齢化に伴い地方が寂れて行っている中でも、人口は十何万人かを保ち、中心部の街中はまだまだ賑わいがある。昔に比べれば人通りも減ってはいるが繁華街はそれなりに街往く人が多い。
真理は繁華街を歩いていた。自分の車を停めた立体駐車場からは割りと歩くので少し汗ばんで来た。真理は上着のボアブルゾンを脱いで手に抱えようか迷った。しかし目的の店舗が見えて来たのでそのまま店まで歩いた。
店のドアを開けるとカランカランとドアチャイムの鐘が鳴った。
「あ、いらっしゃい。真理さん」
ポニーテールに黒っぽいが洒落たエプロンを着た、若い女性のウェイトレスが明るい声で迎えた。この軽食喫茶の娘だ。真理と年齢は変わらない、よく話す陽気な性格の娘だ。
昔は純喫茶だったこの店は外装の一部や内装が木造で、見るからに年季が入っていて、純喫茶の流行らない今は喫茶店というよりはレストラン寄りになっていて軽食喫茶としてある程度メニューも揃えている。だからコーヒーを飲みに来る客だけでなく食事に入る家族客なども多い。
真理は食事目的で来店する客がいない時間帯を狙って店にやって来た。
よく知っているウェイトレスの娘がお冷やを持って来たので、真理は挨拶がてら明るく世間話をした。真理の他に客はいなかった。
「ところで坂戸さんは?今、ここでアルバイトしてるんでしょ?」
真理が娘に訊ねた。
「ああ、善文ちゃんね。今、混み合う夕食時から夜の分の仕込みをしてるわ」
店の娘は明るく応える。
「へえ~、もうすっかりコック見習いね。レストラン職に染まって来てるんじゃないの?」
「いやぁ~、まだまだよ。ウチのお父さんに怒られてるわ。でも投げ出さずに辛抱強く洗いものしたりしてるから偉いわよ」
娘はエプロンの腹のところにトレイを両手で持って立って、座った真理と話をしている。
「で、坂戸さんはあの件は大丈夫なの?その、例の何て言うか障害かな?病気になるのかな?」
真理が言いにくそうにしながら聞いた。
「ああ、それね。一応ね、オーケーなのよ。ところで何にするの?先ずはオーダーを」
「ああ、そうだ。ホットのカフェオレにするわ」
娘は真理のオーダーを聞いてカウンターの方に戻った。そしてカウンターの壁裏になる厨房に小窓からオーダーを伝えた。そしてまた直ぐに真理の席に来た。
「それが良い薬があってね。本人の意志もあるんだろうけど薬が効いてるみたい。善文ちゃんは全然そんな変な気持ちが起きないんだって。本人も喜んでるわ」
「え?薬飲んでるんだ。そんな薬、大丈夫なの?」
「初めから話すとね。電話で話したとおり、善文ちゃんと、彼のお父さんとウチのお父さんでじっくり話してね。先ずは善文は二人の大人からこっぴどく怒られてね。警察に自首させるか、精神病院に入院させるってトコまで話した訳」
真理は黙って聞いている。娘は真理のテーブル挟んだ前の椅子に腰掛けた。二日ほど前に真理の携帯に娘から電話があって、一度店に行くと真理は約束していて、今日来店したのだ。
「それで善文ちゃんも泣いて謝って、二度と覗きなんかやらないって誓ったんだけど、これが性癖だからね、本人の意志だけじゃ抑えられるかどうか解らないだろ、って話になって」
「うう~ん、そうか」
真理が相槌打った。娘は熱心に、坂戸善文の性癖の件を話して聞かせる。
「でさぁ、変質者の性癖を治すって言ったって、去勢手術なんてできないじゃない?人権上の問題があるから。それに日本じゃ何処の病院も人間の去勢手術なんてやってくれないだろうし。本人も二度と性欲なくなる身体になるのも可哀想だし」
娘が座り込んで本調子で話に夢中になって来た。
「海外では性犯罪者用に去勢する薬もあるらしいんだけど、日本では去勢用薬物なんてなかなか手に入らないらしいのよ。それで、ほら、よくペットの去勢ってやるでしょ。日本ではペットの去勢は100%手術みたいなんだけどさ…」
「おい、カフェオレ上がってるぞ」
厨房とカウンターの間の覗き窓から、この店のマスターである娘の父親が大きな声を上げた。
娘は話を中断して「はーい」と返事をすると真理の前の席から立った。
やがて娘がカウンターからトレイに乗せてホットのカフェオレを持って来た。ウェイトレスの娘は店の客が真理以外いないことをいいことに、また真理の前に座って話し始めた。
「でさ、この前の通りをずっと行くとワンニャン動物病院ってあるのよ。そこの獣医の先生をウチの父親もよく知っててね。相談したの。獣医の先生はペットの去勢はだいたい全部手術なんだけど、一定期間去勢状態になる薬があるらしいのよ」
娘は興に乗って話し続ける。真理は黙って聞いてたけれど、一言訊ねた。
「でもその一定期間去勢状態にする薬って、動物病院だからケダモノ用なんでしょ?」
「そうよ、ケダモノ用。でもさ性犯罪者ってケダモノみたいなものじゃない?」
「う~ん、でも性犯罪者って坂戸さんは別に強姦魔とかじゃなくて覗き犯だけどね。性犯罪では軽い方だけど」
「あら、覗きだって立派な性犯罪で女性の敵よ。絶対治療しないといけない性癖よ」
「うん、まぁ、そりゃあそうなんだけど。何だか坂戸さん、可哀想で。動物の去勢薬投与されるなんて」
「真理ちゃん、女性の敵に同情は禁物よ。二階のトイレで用を足してる若い娘が、トイレ窓の桟とか窓枠にチンパンジーみたいにぶら下がって下半身を弄ってる男に覗かれてるトコ、想像して見てよ!そりゃあ怖いわよ~」
「まぁ、確かにね。でも動物用の薬剤なんて副作用ないのかしら?」
「大丈夫よ。善文ちゃんは子供の頃から健康で運動神経良くて元気だったから。ただ、その、男性としての機能が一定期間なくなるだけよ」
娘は他人事なのに自信たっぷりに断言する。真理は同じ職場で二、三年もの間、一緒に仲良く協力して働いていた、坂戸善文が可哀想に思えた。施設勤めしていた間には特に何の問題もなく普通に仕事を全うしていたのだ。まさか常習的な覗き趣味があったとは。そんなこと施設の誰も解らなかったろう。
真理がカフェオレを啜った。甘さを抑えていて美味しかった。
「でもよくそんな去勢効果のある薬をそこの動物病院が持ってたね」
「うん。その先生はね、若いときには海外で勉強もしてて獣医としてはけっこう有名な先生らしいの。動物の去勢薬は世界的にも研究開発中で珍しくてなかなか手に入らないらしいけどね」
「さっきの話だと性犯罪者用の人間に投与する去勢薬はあるのね?」
「それは海外では常習的な性犯罪者に対して、刑罰というよりも治療目的として性欲を抑えてしまう薬を飲ませ続けて社会に出すんだって。性犯罪者に薬物を使用している国は何ヵ国もあるそうよ」
「ふう~ん、そうか。人間用が手に入れば良いのにね」
「日本じゃ難しいだろうし、何とかするのなら一応、医療機関受診から入って専門の先生に相談だろうからね。ウチの父親も善文の家族も専門の先生なんて知らないしね。まぁ一応、動物用で試して見ようと。効いてるみたいだから良いんだよ」
真理は、娘の意見は少々無責任にも感じるけど、坂戸善文の変質者的な性癖の治療には、薬物投与はしょうがないのかと、一応、娘の話に納得はした。
他に客の居ないがらんとした店内の片隅で話をしている内に、坂戸善文が真理のテーブルにやって来た。
「やあ、大佐渡さん」
坂戸善文は真っ白いコック服の腹のあたりを赤や黄色に少々汚した姿で、娘の隣に立った。コックの帽子は被らずちょっとボサボサした頭髪でいる。
「あら坂戸さん、そのユニフォーム、なかなかお似合いじゃない」
格好を指摘されて善文はテレ笑いをした。
「で、さ、今いろいろ聞いたんだけど、大丈夫なの?」
真理はちょっと言いにくそうに訊いた。善文は直ぐにピンと来たようで笑いながら即答した。
「ああ、その件ね。大丈夫。元気だよ。何ともないし、却ってラクで良いよ。変な気持ちがまったく起きないしね。それに薬続けても二、三年後やめたらまた性欲は戻るらしいし。彼女ができたら薬やめるよ」
真理も笑いながら「それは良いわね」と言った。
「善文ちゃん、あんた大佐渡さんが好きだったんじゃなかったの?」
娘がからかい調子で言った。真理は笑いながらも困った顔をした。
「いや、もう何にもないよ。大佐渡さんには彼氏がいるし、今の俺はそういう気持ちはまったく起きないんだ。今はコック業に打ち込むさ」
厨房の方から「善文~」と大きな声で呼ぶ声が聞こえた。
「いけね、まだ夜の分の仕込みが終わってないんだ。じゃあね、大佐渡さん」
坂戸善文が明るく挨拶して小走りで厨房に去った。真理も善文に挨拶した後、娘に向かって言った。
「元気そうで何よりだわ。良かったわ、何か目標持って前に進んで頑張ってるみたいで」
「そうね。あいつ、コックになるつもりなのかな?将来、飲食店でもやるのかな?まぁ、元気に仕事してくれて何よりよ」
それを聞いて真理も明るく笑ったが、真理はこの間、ここの店で坂戸善文が話してた“人生目標”がどうなったのか心配で気掛かりだった。しかしそんな話、店の娘の前では聞けない。この間は坂戸善文が『パワハラしてる人間を始末して回る』ことを人生目標にして生きる、などと恐ろしいことを宣言していたのだ。
善文がそんなことを考えていたことが、この店のマスターや娘や善文の父親に知れたら大変なことになる。
今の善文の明るく溌剌とコック業見習いの修行をしている様子を見ると、善文の中でも、そんな非常識で馬鹿げた目標は捨て去ったのかも知れない。真理は希望的観測でそう思うことにした。
真理は冷めたカフェオレを飲み干した。
「お父さんもね、動物用の薬飲み始めてからの善文ちゃんの態度があまりに良いんで、今度はジステンバーやフィラリアや狂犬病の薬も飲ませたらどうか、なんて言ってるのよ」
「それはちょっとひどいね、坂戸さん可哀想」
「冗談よ。あれ?もう帰るの?」
真理がバッグを引き寄せて片手に持つと、椅子から立とうとする。
「うん。ちょっとね、これから用があって」
娘は「そう」と言ってレジの方へ向かった。真理はレジでカフェオレ代を払って店を出た。
店の娘に、これから用がある、と言ったのはウソだった。本当の気持ちは、坂戸善文のことどころか自分の悩みでいっぱいだったのだ。店の娘にも坂戸善文にも、できるだけ明るく陽気に接していた。真理は今は1人になりたかった。
市の立体駐車場までテクテクと歩く。頭の中は悩みでいっぱいだ。切実な問題で苦悩と言っていい。苦悩が頭の中を堂々巡りしている。
真理の特殊能力というか特殊体質というか、超能力で言えばパイロキネシス的な現象だ。このおかしな能力というか変な体質のお陰で、恋人の在吉丈哉と別れることになるかも知れない。
要するにセックスができないのだ。最初、真理に身体の高温発熱や発火の異常現象が起きたのは、そもそもの初めはサイキックの子供の吉川和也に出会ったからだった。そこからジワジワと性欲が高ぶった。日に日に性欲が強くなって行った。
そしてある日我慢できずに、もう別れてだいぶ経つ、前の彼氏だった蟹原友宏と宿直の夜に風呂場の脱衣所でセックスした。そうしたら身体が高温発熱した。そしてゾンビになってる城山まるみが施設に侵入して来て取っ組み合うハメになり、そのとき身体から発火した。
あれが自分の高温発熱と発火の初めての出来事だ。確かにそれまで霊感が強いとかはあったが、超能力みたいなおかしな現象を起こしたのはあれが生まれて初めてだった。
それからだ、セックスをして自分が性的興奮をすると人間の体温としては異常なほど身体が熱くなる。どのくらい温度が上がってるのだろう?間違いなく60度や70度以上は熱が上がっている。もっとかも知れない。
そして、自分が人間じゃないと思ってしまう一番の苦悩の種は、自分の局所から火が出ることだ。これは恥ずかしいなんてものじゃない。幸い、このことは在吉丈哉には知られてはいない。だが山頂では蟹原友宏に見られている。蟹原も何が起こったのかよく解らなかったとは思うが。丈哉にもラブホテルの一件では不審に思われてるだろう。
発火のときの身体の温度は相当高くなってるのだと思う。何しろ火が出るくらいだし。施設玄関ホールで城山まるみと抱き合ったときは胸か腹のあたりから火が出た。火というかもう炎だ。あんな力はもう自分は人間じゃない。
大佐渡真理は苦悩している。
恋人である在吉丈哉との性交渉もずっと避けている。もうその行為に入ることそのものが怖いのだ。もしも性交渉に入ってしまって自分が興奮して高温発熱や発火したらどうしようと、そればかりが不安で心配で怖くてとてもじゃないセックスなんてできない。
若い男性である在吉丈哉が真理を求めて来ても全て拒否している。丈哉は明らかに不満でお互いの間が変な空気感になって、丈哉も怒っているようで『今日はもう帰る』とその後直ぐに別れることになる。
あまりに丈哉が求めて来るので手コキやオーラルまでして上げることもあるが、この行為だけでも真理自身が興奮して来そうになる。興奮してはいけないと他のことを考えて踏ん張るが難しい。途中で止めたりしてまた変な空気感になってしまう。
このままでは在吉丈哉とも恋人関係解消して別れることになるだろう。
いくら恋人だと言っても、霊感が強いくらいのことは、まぁ大丈夫だろうが、身体から炎が出るとか、それもあの“ま×こ火球”などは恥ずかし過ぎるし化け物の能力だ。退かれるどころの騒ぎじゃない。人間扱いして貰えず恐怖の対象になるだろう。別れるなら理由は何も話さず黙って別れるしかない。在吉の家の人たちに知られても化け物扱いで大変なことになる。
この間はサイキックの子供、吉川和也と不思議な犬に助けて貰ったが、あのとき吉川和也に会っても性的興奮も起きずパイロキネシスの反応も起きなかったのは、多分、山頂の山林で自分の超能力を目いっぱい出しきった後だったからだろう。
不思議なワンちゃんに追いて山を降りたときはボロボロに疲労困憊していて、意識を失う寸前くらいのレベルで何とか気を保っていた。気絶してしまったらその間に救急病院に連れ込まれると思っていたからだ。あのときは、あの小学生野球チームのコーチのお兄さんの車の中で気を失うまいと必死で気持ちを持っていた。無論、アパートに帰ってからバタリと倒れて翌昼間まで爆睡してた。
真理は街の中をトボトボと歩いて、市の立体駐車場に向かう。もう直ぐそこだ。帰り掛けはスーパーにでも寄って、夕飯用に安い惣菜でも探して買って帰ろう。
そろそろ再就職も考えないといけない。取り敢えずコンビニバイトにでも入ろうか。冬場近い晩秋の午後は陽が落ちるのが早い。まだ夕暮れには時間があるが、真理は何処にも行く気になれず、ただ憂鬱気分のままアパートに帰って1人になろう、と思っていた。
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※これにて小説「じじごろう伝Ⅰ」の「狼病編」は29回をもって全編終了いたします。
思えば2012年8月に第1回が始まった「狼病編」も、1から29までと第29回までも続いて、2026年7月、ここにめでたく「狼病編」は終了しました。その期間、実に14年間です。こんなものを読んでくださった読者の皆様、どうもありがとうございます。読んでくださった方々には感謝しかありません。
「狼病編」は終了しましたが、物語「じじごろう伝Ⅰ」はまだまだ終わらずに続いて行きます。以降、続編「大魔獣編」へ続く。
シモネタ文学の金字塔を目指して突き進む小説「じじごろう伝Ⅰ」を向後もよろしくお願いいたします。
先ずは「大魔獣編」..(1)へ続く。●小説・・「じじごろう伝Ⅰ」大魔獣編..(1) - Kenの漫画読み日記。
※この物語は勿論フィクションであり、実在する団体·組織や個人とは全く関係がありません。また物語の登場人物に実在するモデルはいません。
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