Kenの漫画読み日記。

餅賢次の新旧漫画情報と懐古(郷愁)他雑感

●小説・・「じじごろう伝Ⅰ」狼病編..(28)

mochi-kenji

28.



 この地域では百年近い歴史を持つ由緒ある大きな寺で、坂戸善文らが勤める社会福祉施設の副施設長の葬儀が執り行われた。



 施設長始め施設の幹部職員と福祉法人の理事など役員、管理部の事務職員や二十名近い現場職員と、施設利用者の代表四名、施設利用者の保護者らが参列した。



 晴れ渡った天気の良い秋空で、みんな上下喪服に男性は黒いネクタイなど礼服の正装であったが、10月も半ばということで時折涼しい風も吹き抜け、ことさらに汗をかいている参列者もいなかった。



僧侶二人の読経も終わり、参列者が次々と焼香を終え喪主など親族に一礼して会場を去って行く。



 仏堂の前の広場の後ろに寺の内門があり、そこからは少々長い参道が続いている。寺の駐車場まではこの長い参道を抜けなければならなかった。



 道の両端はケヤキの並木が植えてある。遺族や施設の主な関係者以外の参列者たちが参道をぞろぞろと駐車場へと向かって歩いて行く。



 やがて人通りが途切れて来たところで、寺の山門から小走りで坂戸善文が駆けて来た。前を歩く大きな男の背中を追っている。



 「待ってくださいよォ~」



 坂戸善文が広い背中に声掛けた。振り向いた男はメガネを掛けた中年の男性だった。頭髪も幾分薄くなっている。



 男が立ち止まると、駆けて来た坂戸善文が横に並んだ。若い善文はたいして息を切らしてない。



 「いいんですか、森麻羅さん」



 「何が?」



 中年の男が訊き返した。坂戸善文はイケメンだが男性としては身長は低い方だ。多分170センチない。森麻羅と呼ばれた男は180センチくらいある大きな男だ。



 二人とも黒い礼服姿だ。



 「だって森麻羅さんて施設関係者の親戚になるんでしょ?主だった人はみんな残ってますよ」



 「職員もみんな残ってるだろ。サカヨシ君は残らなくていいの?」



 職場の中では若い方の坂戸善文は、職場では先輩たちから愛称で“サカヨシ君”と呼ばれていた。坂善だ。



 「俺はもういいんすよ。もうココ辞めようって思ってるし」



 「あぁ、君もなんだ。最近、辞める人が続くね」



 二人は並んで歩きながら喋っている。



 「俺は親戚って言っても遠縁だしね。うるさい副施設長もいなくなったことだし。辞めたいといえば俺もずっと辞めたいって思ってるけど、俺くらいの歳になるとなかなか次がなくてね」



 森麻羅権一郎は中年の年齢になるが別に役がある訳でなく平の現場職員だ。だから年齢はともすれば親子に近いくらい離れているが坂戸善文と同僚になる。坂戸善文は、一応、年齢がずっと上だし職場の先輩になるので敬語を使っていた。



 「ねぇ森麻羅さん、俺の話聞いて貰えません?」



 「え?何かあるの?俺でよければ別に聞いてもいいけど。相談事なら役に立てるかどうか解らないよ」



 「いや、いいんすよ。とにかく誰かに話聞いて欲しくて」



 二人は参道を歩ききって寺の県道に面した山門まで来た。山門の脇に広い寺の駐車場がある。施設利用者の保護者らがそれぞれの乗用車の横で立ち話をしている。



 保護者らが坂戸と森麻羅に気付いて礼をしたので、二人は会釈を返した。二人は坂戸の乗用車の側まで行く。



 「森麻羅さん乗ってください。場所を変えましょう」



 森麻羅の車は軽自動車であり、善文の車は普通車の白いセダン型だった。排気量1800以上はありそうだ。



 森麻羅は「うん」と返事して助手席に座った。運転席に乗り込んだ坂戸善文は直ぐに自分の車を発進させて寺を出た。数分走るとコンビニ駐車場へ入る。



 コンビニで飲み物を買った二人は、コンビニにしては広い駐車場の隅に車を停めたまま中で話すことにした。



 森麻羅はペットボトルのミルクコーヒーを一口飲むと、坂戸に訊いた。



 「で、俺に何の話があるんだい?」



 善文も一口ペットボトルをあおると話を始めた。



 「ええ。森麻羅さん、口固いですよね?」



 「うん、まあね。俺は口が固いよ。喋るなってことは誰にも言わないよ。いったい何なんだよ?」



 坂戸善文は直ぐには喋らずに迷っているらしかった。ためらっているふうに黙ってる坂戸に森麻羅は先を促した。



 「ここまで来たんだから話せよ。俺は誰にも言わないって」



 それを聞いて思い切ったように坂戸が話し始めた。



 「実は今日の葬式の仏様である副施設長、あれトドメ刺したの俺なんです」



 「え?だって副施設長はもともとICUに繋がれて命は風前の灯だったじゃん。山火事の跡から発見されたときは心肺停止って言われてて事実上もう死んでた筈なんだけど、どういう訳か救急病院着いたらまだ命があった。でも二日くらい命が持ったけど結局やっぱり駄目だった、ってだけだろ」



 「そうなんですよ。死んだ筈がまだ生きてて、俺、副施設長大嫌いだったから死ななかったのが悔しくて、後で病院行ったんです。夜中に忍び込んで」



 森麻羅は驚いた。



 「ええ~っ!坂善(サカヨシ)君は救急病院に忍び込んだの?ICUによく入れたな」



 「ええ。救急病院っていっても特に警備がある訳でもなく、夜間救急外来の出入り口から警備員にも見つからずに入れました。他の患者も少なくて目に着かずにICUまで行けた」



 「へえ~、案外そんなもんなんだな」



 森麻羅は感心したように言う。特別非難するような態度でもない。ちょっとした好奇心のようなふうで聞いている。



 「夜間外来のとこも人がいなくて、勿論記帳なんかする訳ないし、看護婦もナースステーションにいたけど鉢合わせはなかったし」



 「病院って監視カメラとかないのかな?」



 「それは解らなかったけど、とにかくICUまで行けて、誰にも見つからずに病院を出れた」



 「へえ~、そうなんだな」



 と森麻羅はつくずく感心したように言う。



 「でさあ坂善君、ほっといても死んじゃうような虫の息の患者にトドメを刺した、ってどういうこと?」



 森麻羅は好奇心に駆られたようで話の続きを訊いた。



 「ああ、それは施設の農具倉庫にどろっとした無色透明の液体の農薬があるでしょ。あれを、弟の昆虫採集のとき使う注射器で点滴の袋に打ち込んだんです」



 「そんなことしてよくバレなかったなぁ。で、副施設長は苦しんだの?」



 「いえ、そんなの解りません。副施設長はベッドに仰向けで死んだように寝ててピクリとも動かないし、心電図とかいろいろ管に繋がれてたけど、とにかく袋に農薬注射したら僕も怖くなって急いでICUから出たし」



 「そうかあ。それから事件的に大騒ぎにならずにスムーズに葬儀になってるから、バレなかったんだね。もともと風前の灯みたいな状態だったから自然に命が持たなかったって判断されたんだね。良かったね、検死なんてされなくて」



 坂戸の話すことは重大な犯罪行為なのだが、森麻羅は何だか呑気な様子で、特に咎めることもなく淡々と話を聞いている。



 善文は、自分の秘密を一気に喋って喉が乾いたのか、ペットボトルのジュースをごくごくと飲んだ。



 「さっきの葬儀では、焼けどがひどいからってお棺の中の遺体見せなかったけど、副施設長の顔は見たの?」



 「あぁ、顔は何か包帯でぐるぐる巻きだったような…。全身は毛布が掛かってましたね。何しろ農薬注射したら急に怖くなってあたふた逃げ出したもんで」



 「あー、そう言ってたね。何か施設長は遺体は土葬にして、親族だから上に石碑立てるみたいね」



 森麻羅は世間話の態で落ち着いて話している。



 「へぇ~、そうなんすね。森麻羅さん、くれぐれもこのことは内密にしてくださいよ。話したら何か怖くなって来ちゃって」



 善文は運転席から森麻羅の方に身体を向けて懇願するように言った。



 「あぁ、勿論だとも。坂善君も俺の他には誰にも話しちゃいけないよ。俺が聞いたってバレちゃうと犯人隠匿とか犯罪隠避とかイロイロ引っ掛かることになっちゃうかも判らないからね。警察のお世話はごめんだ」



 「わかりました」



 善文は神妙な態度で頷いた。



 「でもさ、そもそも、多分ほとんど助からない確率の高い重傷だったんだろ。何しろ拳銃2発に山火事の大焼けどだし。坂善君が点滴に農薬入れたせいじゃなくても命尽きたんじゃないかなぁ」



 助手席の森麻羅は顎に手をやって考えるような仕草で言った。



 「まぁ、解らないけど取り敢えず俺は復讐を果たして満足です。後悔してません。あのパワハラのかたまりみたいな副施設長がいなくなって、職場のみんなも相当気が楽になったろうし。多分これから今までと違ってみんなかなり働きやすくなりますよ」



 善文は少し元気が戻ったように明るい調子で言った。自分の行為を自分の中で正当化しようと無理して勢いを出してるようだ。



 「それはそうだな、坂善君。副施設長が死んで悲しむのは施設長とか親族くらいのもんだろう。今日は職員もみんな神妙な顔してお参りしてたけど内心は喜んでたんだろうね」



 森麻羅が坂戸の犯罪行為を肯定した。それで善文は元気づいたように「はいっ」とはっきりと返事をした。



 「職場のみんなの気持ちが楽になって働きやすくなったんだから、坂善君は悪いことした訳じゃないよ。ちっとも後悔する必要なんかない。自信持っていいよ」



 森麻羅が激励するように強く言うと、善文の表情がパアッと明るくなった。



 「そうかあ。俺は逆に良いことをしたのかな」



 「そうだとも。あんなパワハラ三昧な鬼野郎がいなくなれば職場のみんなは幸せになれるんだ。間違いなく良いことしたんだよ。坂善君、自信持てよ」



 やったことがことだけに不安で心配そうな表情をしていた善文も元気を取り戻して明るい笑顔になった。



 「森麻羅さん、俺、自信持ちました!何か晴れやかな気分になりました」



 「そうだそうだ、良い調子だ。ただし、このことは絶対誰にも喋ってはいけないよ。例えどんなに良いことでも秘密にしとかないと駄目だ」



 「はい勿論です。今日はありがとうございました」



 善文は話を聞いてくれた森麻羅に改めて礼を言った。元気が出て本当に感謝しているようだ。



 「坂善君はやっぱりココ辞めるの?」



 「はい。もう決めてます。次の仕事はまだ何も考えてないけど。当分は遊んでてその内何処かに就職決めます」



 「そうか…」



 森麻羅が考えるような様子で黙った。



 「どうしたんすか?急に黙り込んじゃって。何かあります?」



 森麻羅がおもむろに話し出した。



 「いや、坂善君がさ‥。何て言うか、せっかくみんなのためになる、職場のガンであるパワハラ上司を1人、排除してくれてさ、職場のみんなが楽しく働けるようになった訳じゃないよ」



 善文は森麻羅を見詰めながら黙って聞いている。



 「そんなさ、社会のためになる良いことしてさ、働く人たちが幸せになったのに、副施設長1人の始末でやめてしまうのはもったいない気がするんだよ」



 「と、いいますと?」



 「だからさ、今回の坂善君の行動は社会のためになる凄く良いことなんだよ。労働者が働きやすくなって幸せになる、それは立派な行動なんだ」



 善文は森麻羅の話を真剣に聞いている。



 「でもね。世の中のパワハラ上司は副施設長だけじゃない。この社会にはパワハラ上司はいーっぱいいる。もう会社ごとパワハラ・モラハラのブラック企業だってある。パワハラ上司の下やブラック企業で働いてる人たちは、そりゃあひどい目に合って毎日耐えて生きている。労働地獄だ」



 森麻羅の話を真剣に聞く善文の目には輝きが灯っているように見える。



 「本当だったらさ、その地獄の毎日を送っている労働者の人たちも、ウチの職員のように助けてやった方が良い。な、そう思うだろ?」



 「はい、思います。地獄労働の人たちは助けてあげたいです」



 ここで森麻羅は畳み掛けるように強く言った。



 「それなんだよ、坂善君!勿体ないんだよ、副施設長だけで終わらせちゃあ。世の中にはパワハラ上司もいっぱいいて虐められてる労働者もいっぱいいる。虐げられた労働者を救えるのは坂善君、君なんだよ。解るだろ!」



 「解ります、森麻羅さん!僕にも希望の光みたいなものが見えた気がします。これまで僕は夢とか希望とかなく毎日ただ何となく惰性で生きてました。ときどき考えたものです。俺は何のために生きてるのか?これでいいんだろうか?って。でもそれ以上は難しいことは考えまいって、毎日ただ職場行って与えられた仕事して給料貰って食べて遊んでしてるだけで終わってました。何にもなかった…」



 運転席に座る善文はハンドルの上に開いた両手を置き、じっと両掌を見詰めて話している。何だか感情的になっているようだ。思い詰めた表情でいる。



 森麻羅は独白するように喋る坂戸善文の話を黙って聞いている。



 「森麻羅さん、俺、何か希望が見えて来ました。希望の光が。何て言うのかな、人生目標って言うか生きがいみたいなものかな」



 「そうか」森麻羅は一言だけ返した。善文はまた話し続けた。



 「これまで自分が生きてて世の中のためになる、なんて考えたこともなかった。でも今度のことは俺が副施設長をやったことで職場のみんなが幸せになった。俺、今、猛烈に感動してます。もっともっと人のためになることを続けたい」



 坂戸善文は涙でも流さんばかりに気持ちが入っている。自分で話しながら自分の話している内容に感激しているようだ。



 善文はハンドルの上の両手をぐっと力を入れて握り締めた。



 「俺これからもやります。これからもパワハラ野郎を殺して行きます。世のため人のためだ!」



 「そう来なくっちゃあ、坂善(サカヨシ)君!偉いぞ。君にしかできないことだ。で、これからどうするんだい?」



 「先ずはとにかく今の施設を辞めて、次の職場、パワハラ上司がのさばって社員を虐めている会社を探します。施設でも企業でもいいんですけどね。世間のウワサとか、パワハラ職場の情報を集めて、そういう悪質な職場を探し出しますよ。そしてそこへ就職する…」



 「別に就職しなくたって闇討ちとかでもいけるよ」



 「そうですね。パワハラ野郎が夜道を歩いて帰ってるとこを後ろから金属バットでぶっ叩いてもいいですね。とにかく見つからずに始末しちゃえばいいんだし」



 「そうだそうだ、良いね良いね、その調子だよ、坂善君!」



 坂戸善文は森麻羅権一郎の激励に満面の笑みで応える。



 「ありがとうございます。俺、やりますよ!この世からパワハラ・モラハラを失くしてしまうために頑張ります。これは俺がこの世に生まれて来た使命かも知れない」



 善文は顔を紅潮させ、目の前に上げた拳を力を入れて握り締め、情熱を籠めて話し続ける。



 「そうとなったら道具も揃えないといけないですね。拳銃は無理でも、刃渡りのあるナイフだとかメリケンサックだとか。後ろから首を絞めるために柔術とかも習いに行こうかな」



 「頑張らなきゃね」



 「何かワクワクして来ました。こんなに自分の人生に対して熱い気持ちになったの初めてです」



 「でもくれぐれも慎重にならなきゃね。捕まってしまったら何にもならないからね」



 「はい。そこは充分注意して、パワハラ・モラハラやってるヤツは男女・年齢を問わず、この手で始末してやります。これは神様が俺に与えてくれた天の啓示だ。何か、昔あったでしょ、昭和の昔の時代劇で。必殺仕事人とかって。あんな仕事人になった気分で嬉しいですよ」



 「それともう一つ付け加えるとね、ある程度、そうだな5、6件くらい続けてパワハラ野郎を始末したら、それは世間に知れ渡るだろ。パワハラ・モラハラなんかやってるといつか天罰が下るって。そうするとね、世の中のそういうヤカラは怖くなってねパワハラとかやらなくなるんだよ。つまりね、社会のパワハラ抑止効果が出るんだ」



 坂戸善文はちょっとどういう意味か理解できずにポカンとした。



「あ、これは別に解んなきゃ解らなくていいよ。とにかく最低5件くらいはパワハラ野郎の始末を続けなきゃいけないってことさ」



 「はい」善文は明るく溌剌と応えた。



 善文は森麻羅を送るために自動車を発進させた。車の中でも森麻羅は喋り続ける。



 「もう副施設長がいないから良いね。何かちょっとでも施設が関係するイベントを少しでも早めに抜け出そうものなら、副施設長から電話が来たもんね。もの凄い剣幕で怒鳴り着けられる。休みの日でもいつ副施設長から電話が来るかと恐怖でいっぱいだった。あれがなくなっただけでも本当に心安らぐよ」



 「休みの日まで副施設長から電話が来てたんですか?」



 「ああ。遠縁の俺や幹部職員はね。休みの日に無給で呼び出されたりね」



 「大変だったすね」



 「ああ、それだけでも坂善君のお陰だよ。もう休みの日に電話が掛かって来たり、怒鳴り散らされたりするのを怯えなくて済むからね」



 「本当に俺は良いことしたんすね」



 「坂善君、だからってくれぐれも自分のやったことを親兄弟や仲のいい人らに自慢して話しちゃ駄目だよ」



 「解ってますって」



 善文の車は寺の駐車場へと戻る。



 参道で森麻羅の背中を追い掛け声掛けたときは、不安と心配で暗い表情だった坂戸善文も今や顔の血色も良く、弾けるような明るさで自然と鼻歌が出ていた。善文は、自分の人生目標ができて生きがいを得たことが嬉しくてたまらなかった。



 隣席に座る森麻羅権一郎は無表情だったが時折、ニヤリと何やら怪しげな微笑をしていた。



 坂戸の大型セダンが寺の駐車場に戻り、森麻羅は自分の軽自動車に乗り換えて帰って行った。



 余談だが、後年、坂戸善文は殺人事件の犯人として逮捕され、裁判員裁判に掛けられることとなる。だがそれはまだ先の話だ。・・・



             *


             *



 県の最大都市部から峠を一つ越えて、比較的都市部に近い位置にあるI市は中堅都市で、大佐渡真理の住むT市よりも規模的に大きく、人口も3倍近く居る。そのため街の繁栄もT市に比べればかなり大きく、市街地はビルが林立している。



 大佐渡真理は巨大ビルの立体駐車場に自分の乗用車を置き、秋も深みに入って来た季節の晴れた日、真理は長袖シャツにジーパン姿で、平日の昼下がり、I市の中で一番賑やかな市街区を歩いた。



 裏通りに入り狭い路地を歩くと、飲み屋や商店が並ぶ中の一軒の、見るからに年季の入った店舗のドアを押した。



 小さな古ビルの一階にある店は、ドアも店舗の表面の壁も板を張り合わせた木造つくりで、その古びた質感からかなり年月の経った店舗だということが解る。もともと土台のコンクリート造りのビル自体がかなり古いのだが。



 店の中は天気の良い昼日中なのに薄暗かった。表通り側の幾つかの窓もステンドグラスみたいにスモークが貼ってあり、店内の黄色い灯りも落としてある。かろうじて読書ができるくらいか。



 大佐渡真理は何度も来たことがあるらしく勝手を知っているようで、空いている席の一つに座り、水を持って来たウェイトレスに友達のように親しく注文をした。



 クリームソーダのオーダーを受けた若い店員もにこにこしながら、真理をよく知っているらしく親しげに「今日は暑いね」と二、三世間話をしてカウンターへ去った。



 ウェイトレスがクリームソーダを持って来た。年齢は真理と同じくらいだろうか。身長のない真理に比べて背の高い娘は、真理のショートボブと対照的に長い髪をポニーテールにしている。



 「1人なの?」



 ウェイトレスの問いに真理が応える。



 「いや、実はあたしが呼び出された方。あたしが少し早く来たからもう直ぐ来ると思うけど」



 薄暗い店内には真理の他には客がいなかった。暇なのか店員の娘は立ったまま真理と世間話をしていた。



 軽食喫茶のドアが開いた。



 「あぁ、ごめん、待った」



 「ううん、あたしもついさっき来たとこだよ」



 「なーんだ、待ち合わせって善文ちゃんなの」



 とウェイトレスがよく知っているように笑顔で親しげに言った。坂戸善文は大佐渡真理のテーブルの前に腰掛けた。



 「俺はアイスコーヒーね」



 オーダーを聞くと娘は一旦下がり、お冷やを持って来て「どうぞごゆっくり」と言ってカウンターの中に下がった。



 「ねぇ、今日は副施設長の葬儀に行ったんでしょ。こんな早く抜けて来ていいの?」



 「かまやしないさ。俺はどーせ辞めるんだし」



 午前中は礼服を着ていた善文も今は長袖シャツと綿パン姿だ。



 「今日は出勤じゃなかったの?」



 「休日だよ。休みの職員はみんな出てたよ。まぁ、葬式だからね」



 真理は、現れてからの坂戸善文の態度がやけに堂々としているのが気になった。副施設長の死は完全に銃弾2発や大焼けどによる自然死であり、坂戸は何も手を加えなかったのではないかと思った。



 「坂戸さん、結局さぁ、病院には行かなかったんでしょ?」



 「え、病院って?」



 「だからそのICU。副施設長の入院先」



 「ああ~、そのことか。ICU行ったよ。大佐渡さん、俺はやることやって来たよ」



 坂戸善文は何の動揺も見せず平然と言った。



 「ええーっ」と真理は驚いて声を上げた。



 事が事だけに真理は大きな声を出したことを心配して、誰もいない店内をキョロキョロ見回した。カウンターには店員の娘もいない。



 「俺はさぁ、とにかく自分の復讐を果たしたよ。有言実行ってヤツさ」



 善文は座っている二人掛けソファーの背凭れに腕を回して態度がデカい。胸を張って顎を上げ、大物ぶっているようにも見える。



 真理は、坂戸の発したセリフと、何だか自信に溢れたような態度に、さらに驚いてしばし言葉が出ない。



 ウェイトレスがカウンターの裏から現れてアイスコーヒーを持って来てテーブルに置いた。娘は二人の会話の邪魔をするまいと無言でカウンターに戻った。



 ウェイトレスが行った後でヒソヒソ声で真理は、坂戸が副施設長の入院する病院に忍び込んだ詳細を訊ねた。善文は午前中、葬儀の帰りに森麻羅権一郎に話した内容と同じことを真理に話した。



 真理は驚いて言葉が出ないでいる。話し終えた坂戸はICUでの自分の行為を微塵も後悔することも怯えることもなく、むしろ誇らしげな態度でいる。話して聞かせる間もまるで自慢話でもするように自信に満ちていた。



 「大丈夫なの?」



 ようやく一言、真理はそっと口に出して訊いた。心配している表情だ。



 「大丈夫だよ。だって何の騒ぎもなくスムーズに葬式になってるし。何か疑われてたら葬式に刑事とか来るじゃん。そんな人見当たらなかったし。もともと、もう虫の息で今日か明日か今夜かって状態だったから病院も何の疑問も持たなかったんだよ」



 真理は坂戸善文の自信たっぷりな堂々とした態度に呆れている。



 「でさぁ、この前、あたしにICU行くからって宣言してたから、あたしを呼び出してその話をするのはいいけど、また別の人、森麻羅さんとかにも話して大丈夫なの?森麻羅さんが誰かに話したらどうするの?あの人、施設側の遠縁とかになるんでしょ?施設長とかに喋ったらどーすんのよ」



 真理は咎めるような調子で言った。



 「森麻羅さんは大丈夫だよ。あの人は俺の味方さ。俺の行為を褒め讃えてくれた。励ましてもくれたよ」



 「えーっ!」とまた真理が驚いて声を上げた。少し大きな声だったのでカウンターの娘の方を見たが、娘は何か作業をしていてこちらを向いてはいない。さっきからカウンターとカウンター裏とを往き来している。



 「森麻羅さんってさ、身体大きくて普段もボーッとしてて何考えてるか解んないよーな人だし、あの人、前に言ってたのよ『俺は中学のとき先生に“ウドの大木”ってアダ名付けられてた』って。変なオッサンだよ」



 真理は森麻羅権一郎に対して良い印象を持っていないらしく、善文の森麻羅への信頼を否定しに掛かる。



 「坂戸さん、森麻羅さんには、あたしにも話したって言ったの?」



 「いや、大佐渡さんのことは何にも話してないよ」



 真理はそれを聞いてホッとした。



 「森麻羅さんにも誰にも私のことは喋んないでね」



 真理は念を押した。もし万一、坂戸善文の犯罪が露見したら、大佐渡真理がこの件を知っていたのに通報しなかったということで警察の取り調べに掛かることは避けたいからだ。



 「森麻羅さんは良い人だよ。俺を理解してくれる。俺に希望を与えてくれたんだ。俺は森麻羅さんを信頼してるよ」



 「希望‥って何?」



 「俺のこれからの生きがい。俺の人生の希望だよ」



 善文は真理に、葬儀の後での車中での森麻羅権一郎とのやり取りの内容を話して聞かせた。



 真理は驚いて呆れて言い放った。



 「あんた馬鹿じゃないの」



 馬鹿と言われて善文は腹が立った。



 「馬鹿って何だよ!」



 カウンターにいるウェイトレスの娘が真理と善文の方を見ている。喧嘩をしているのか心配しているようだ。真理はつい大きな声を出したことを後悔した。今度は小声になって続けた。



 「あぁ、ごめん。でも、森麻羅さんの言うことはおかしいよ。あの人、変だよ」



 「変じゃないさ」



 あくまで坂戸は森麻羅を庇う。



 「そんなおかしなこと言うなんて、何かあの森麻羅さんてサイコパスなんじゃないの?」



 真理の森麻羅への非難の調子が強い。



 「サイコパスって、まさか森麻羅さんは快楽殺人鬼なんかじゃないだろ」



 「それはよく映画に出て来るサイコパスのことでしょ。サイコパスの人って、別に人殺しとか凶悪犯罪起こさなくても、普通にいっぱいいるのよ」



 「ええっ、サイコパスってジェイソンみたいな殺人鬼のことだろ?平気で続けて何人も殺しまくるような恐ろしいヤツ」



 「違うわよ。サイコパスって何て言うか脳の障害というか精神障害になるのかなぁ、人格障害か、とにかく通常の人たちと違う脳の仕組みの人たちなのよ。世の中の百人に一人くらいの割合でいるんだって」



 善文は黙って聞いている。



 「サイコパスの人たちって何故かみんな知能が高いから、ヘタに犯罪とか社会リスクを犯さないのよ。知能高いからさ、けっこう社会の上位にいる人が多いの。経営者とか医者とか弁護士とか」



 そう言ったあと少し考えてから、真理はまた話し始めた。



 「でも森麻羅さんはいつもボサーってしててあんまり頭良さそうじゃないもんね。やっぱ森麻羅さんはサイコパスじゃないか。何考えてるか解んない人だけど何にも考えてないのかもね」



 と森麻羅を馬鹿にしたような言い草をして、真理は笑った。



 「え~っ、どっちなんだよ。とにかく森麻羅さんのことは悪く言うなよ。良い人だよ」



 「そ~う?あたしはあの人は信用できないな。だいたいあの人、何かはっきりしてなくて好きじゃないのよ。それに坂戸さん、いろいろ喋ったみたいだけど、あの人、口が軽いって職員の間じゃ有名なのよ」



 真理はよほど森麻羅を嫌って信用してないらしく、強い調子で森麻羅の人格を否定するようなことを言う。



 「森麻羅さんは俺に絶対誰にも喋らないって言ったし、まぁ、個人的にみんなそれぞれ好き嫌いはあるよ。でさぁ、その普通に世間にいるサイコパスってどういう人?見分けられるの?」



 坂戸の質問に真理は少し考えてから話し始める。



 「早く言えば良心のない人たちね。共感性が欠落してて感情が薄いというのかな、そして平気でウソの吐ける人たち。本当は冷酷な自己中人間なんだけど、頭が良いから、良い人を演出できるのよ。つまりね、見掛けはみんな凄く良い人なの。でも隠している真の姿は、簡単に人を騙して裏切れるし、冷酷に仲間を切り捨てられる人なの」



 「へえ~、そんな人たちがいるんだ。見た目は良い人だ、って見破ることはできないの?」



 「さっきも言ったけど凄く頭の良い人たちだから、良い人を演じるのがなかなか周到なのよ」



 「ふう~ん。ウチの施設にはいないかな?俺の周りでもいないような気がする」



 「百人に一人だからね。それに頭が良いから案外社会の上位にいてお金持ちや名士だったりしてるだろうし。それか頭脳犯の犯罪者か」



 「施設長とかどうなの?女の人でもいるんでしょ?」



 「勿論、女性のサイコパスもいるでしょうね。確かに施設長は女性でもやり手の実業家で、ビジネスライクに冷徹に部下も切るけど、サイコパスってほどじゃないんじゃないの。あの人は人の好き嫌いは激しいのかもね。好戦的な方かな」



 真理は施設長への人物評を続けた。



 「サイコパスにしては、けっこう感情的にもなるし、我が子も溺愛してるみたいだし‥」



 善文は真理を見詰めながら黙って話を聞いている。



 「それに施設長は有能な実業家なのかも知れないけど、サイコパスってほどは頭が良いとは思わないなぁ。施設長のずば抜けているところはコミュニケーション能力だね。あと、自制心もしっかりしてるみたいだけど。やっぱり、あたしは施設長はサイコパスじゃないと思う」



 ひととおりサイコパスの解説と施設長の人物評を真理が終えると、善文が言った。



 「じゃあ、副施設長だ。パワハラ·モラハラの鬼だし」



 「副施設長はサイコパスなんてものじゃなくて精神異常者よ!」



 真理には、副施設長らが自分を拉致して山で拘束し輪姦しようとした恨みの憎しみがあった。



 「じゃやっぱり、俺が副施設長のトドメを差したのは正しかったんだね」



 「それはちょっと、やり過ぎなことだと思うけど‥」



 真理は、常識的に考えて当たり前だが、あくまで坂戸善文の、これからの希望だと主張する犯罪的活動には反対だった。坂戸善文とは別にそれほど近しい間柄でもないが、やめさせるべきだと思う。



 「副施設長のことは済んだこととして、坂戸さん、やっぱり森麻羅さんに言われたことはするべきじゃないよ」



 「また、それか」



 善文は嫌気が差して怒ったような態度だ。



 「森麻羅さんて頭おかしいのよ。あなたそそのかされてるわ」



 「大丈夫だって言ってるじゃないか。大佐渡さんと森麻羅さんさえ黙ってれば問題ないんだ。俺は社会のために戦って生きて行くんだよ!」



 声は抑えているが善文は怒鳴り調子で言った。善文は不機嫌に腕組みをして顔をそむけている。カウンターからは店の娘が喧嘩をしているのだろうと二人の方を心配そうに見ている。



 店のドアが開いてドアに取り付けた呼び鈴が鳴った。



 若い男女のカップルが入って来て、真理と善文のテーブルから離れたテーブルに座った。直ぐに2つのお冷やを持って店員の娘が行った。



 真理らの他に客のいないがらんとした店内に別の客が入って来たところで、真理は善文にトイレだと言って席を立った。



 店のトイレに行くところで、客の注文を受けてカウンターに戻るウェイトレスの娘と鉢ち合った。



 「あ、トイレだったらね、昨日鍵が壊れて応急処置してるから。中から掛けたら開かないけど弱いから気を付けて。今日の夕方か明日には工事屋さんが新しい鍵取り付けに来るんだけど」



 「うん、解った」



 真理は店の奥にあるトイレへと進んだ。



 真理と店員の娘とのやり取りを聞いていた善文は、娘がカウンターの裏側へ回って姿が見えなくなると、おもむろに席を立った。



 新しいカップルの客は二人の話に夢中だ。善文はその席の横を抜けてトイレの方へと行った。



 トイレは店内フロアの奥からさらに伸びた細長い廊下の奥に設えてある。善文は廊下の奥まで歩いて、廊下側面にあるトイレのドアの前に立った。



 無表情の善文は手を伸ばすと力を入れてドアの取っ手を引っ張った。ドアは開かない。



 ドアの内側からコンコンとドアを叩く音がした。それでも善文はまたドアを引っ張った。



 「あの、入ってます」



 中にいる真理が小声で応えた。



 その声を聞いて目付きの変わった善文がさらに力を入れて、両足で踏ん張り腰の力を入れて全力でドアを引いた。バァンッと音がしてトイレのドアが開いた。



 便器に腰掛けていた真理が驚いて「きゃっ!」と声を上げた。驚いた真理は素早く肌着のパンツをずり上げて、中腰まで立って、膝下まで降ろしていたジーパンを引き上げた。



 「坂戸さん、何してるのよっ!?」



 真理は怒って、いきなりトイレのドアを開けた行為を強く咎めた。



 しかし善文の目付きがおかしい。何だかギラついた異常な目付きで様子が変だ。



 「俺はさぁ、大佐渡さん、大佐渡さんのことが前々から気になってたんだよ」



 先程までと違って坂戸善文の態度が異様に変わってしまっている。



 「気になってたって、あたしには彼氏がいるってあなたも知ってるでしょ」



 真理の返す言葉は強い調子で訴える言い方だ。



 「あぁ知ってるよ。藤村さんの転職した先の男なんだろ。そんなのはどーでもいいんだ。俺はもう…」



 「どーでもいいはないでしょ!おかしいわよ坂戸さん」



 真理が強く訴える。



 ふと坂戸のズボンの腰のところに目をやると、ズボンのチャックの部分が膨らんで盛り上がっている。真理は危険を感じた。



 「俺はさぁ、昔から、女の人のトイレの姿に興奮するんだよ。大佐渡さんがトイレに入るって言うから居ても立ってもいられなくてさ」



 善文がヘラヘラ笑い出した。目付きがおかしい。目が逝っている。真理はこの目は変質者の目だと思った。便器の前に立つ真理は、トイレの前に立ち塞がる坂戸の胸を両手で押した。



 「どいてよ!」



 真理が叫んだ。善文は真理の両手を掴んで腰を前に突き出して真理の身体に押し付けようとする。



 真理と善文がトイレの前で揉み合いになる。



 「離してよ」



 真理が訴えて善文を押し返してると、廊下から大きな声がした。



 「どうしたの!」



 店のウェイトレスの娘がやって来た。



 「何してるの!?」



 娘が叫んだ。真理が大きな声で応える。



 「あぁっ、助けて!この人おかしいのよ。力任せにトイレのドア無理やり開けて入って来たの!」



 「坂戸君、何してるのよっ!警察呼ぶわよ」



 娘が怒鳴った。



 「うるせいな、店の人間は引っ込んでろよ。これは客の問題だろ。これを見ろよ!」



 坂戸善文は素早くズボンのチャックを降ろして、中のいきり勃ったものを取り出した。あんまり大きくはないが見事に天を突くように勃起している。



 「きゃあっ!」今度は店の娘が叫びを上げた。



 坂戸と娘の言い合いの隙に真理はドンと坂戸の肩を押してトイレから出た。そして店の娘の脇に並ぶ。



 「どうしたんだ!」



 野太い男の声がした。店内フロアの奥からの騒動の声を聞き付けて、店主の太った中年の男が急いで廊下へ入って来た。コック服を着て白い帽子を乗せている。



 「お父さん、坂戸善文がおかしいのよ!こいつ変態だわ」



 娘が訴えた。駆け付けた中年の肥えた男はウェイトレスの父親らしい。



 男は善文の下腹部を見た。ズボンからいきり勃ったちんちんを出している。



 「この馬鹿野郎!警察呼ぶぞ、出て行け」



 親父が怒鳴った。



 親父が現れたことで坂戸善文はズボンに固く屹立したものを納めようとするが、なかなかうまく入らない。そんなに大きなものでもないのだが、固く直立しているのでズボンのチャックの窓に押し込むのには苦労している。



 「チッ‥、わかったよ。帰るよ」



 真理を凌辱することを諦めた善文はボヤく調子で言った。



 善文は店主の親父の脇を抜けて店のフロアに出た。テーブルから立っていたカップルの女性客の方が小さな叫びを上げた。男性客の後ろから肩越しに、一生懸命ズボンに納めようとしている善文のちんちんが見えたからだ。



 善文の背後からまたコック姿の親父が怒鳴る。



 「早く出ていかんか!」



 店主は怖がる客に配慮したのだ。



 「わかった、わかった。出て行くよ、おじさん。こんな店二度と来ねえよ」



 善文は捨てゼリフを吐いて店の出入り口ドアに向かう。



 「今度だけは警察には届けないでおいてやる。だがな、おまえの親父にはちゃんと報告するからな」



 ドアを開けた善文は立ち止まって、チラリと一瞬振り返ったがそのまま出て行った。



 善文が出て行って姿が見えなくなってもコックは下を向いて悔やんで、泣き言のように言葉を振り絞る。



 「まったく、俺はあいつの親父に何て言えばいいんだ…」



 店主の姿をじっと見ていた真理に娘が話し掛けた。



 「あの善文のヤツはお父さんの幼なじみの息子なのよ。あたしも善文とは幼なじみになるの。善文の家はね、このもう一つ裏通りにある古い印刷屋してるの。ウチのお父さん家と善文の家はこの街の古くからの付き合いなのよ」



 真理は黙って娘の説明を聞いた。



 カップルの客にペコペコと頭を下げてお詫びをした年配のコックは真理の方を向いて真理にも頭を下げた。



 「いえ、こちらこそ何か大騒動になってしまって済みません」



 真理の方も頭を下げた。



 「お父さん、あたし解ったわ」



 娘の言葉に親父が娘の方を向いた。



 「もう何年も前からこの町でトイレ覗きの痴漢が出てるでしょ。とうとう捕まらないままだけど。今度のトイレのドアこじ開けで気が付いたのよ。あれは全部、坂戸善文なのよ。きっとそうだわ」



 娘がきっぱりと断言すると、聞いた父親は驚いた。



 「何?そうか、そう言えば、この町のあちこちの娘さんやホステスが便所を覗かれたって騒いでたな」



 真理はトイレに踏み込まれたとき、坂戸が『俺は女性がトイレに入ってる姿に興奮する』と言っていたのを思い出した。真理は娘にそのことを伝えた。



 「やっぱり…」



 少し考えてから娘が話し出した。



 「トイレ覗き騒動はもう何年も前からなんだけどね、私の友達の女の子もね、その娘の家のトイレは二階にあるんだけど、そこも覗かれたって。そのときはね、目出し帽の覆面被ってて、トイレの窓の桟を片手で掴んでぶら下がって、もう片方の手で自分のズボンの股間を弄ってたらしいの」



 真理が驚いた。



 「まあー、凄い。アクロバットみたいな変質者ね」



 「そうなの。アクロバット変態よ」



 真理は坂戸善文が職場で運動神経が良かったことを思い出した。



 横で話を聞いてた店主がテーブルのカップル客に気が付いて慌てた。



 「いけねっ。オーダーの料理作るとこだったんだ」



 店主の親父はあたふたと小走りでカウンターの中へ入り、カウンター裏へ消えた。



 店の娘は真理に何度も謝ったが、真理は店側が悪い訳ではないと、謝らないでくれとことわりを言った。娘としてはこの町の、昔からのよく知っている住人が犯罪的な失礼なことをしでかしたことを、町の代表みたいな気持ちで謝罪しているのだった。



 真理は何だか優れないおかしな気分になって店を出ることにした。



 真理は、アイスコーヒー代を払わずに出て行った坂戸善文の代金も一緒に出したが、娘は代金は全部要らないと断った。悪いので真理はどうしても自分のクリームソーダ代だけは置いて、店を出た。



 真理は気分が下がってしまって、サエない気持ちで立体駐車場の方へと通りを歩いた。



 坂戸善文とは特に仲の良い間柄という訳ではなかったが、ついこの間まで同じ職場で一緒に働いていた男が、自分に襲い掛かる気持ちでいたり、また話ではトイレ覗きの常習犯の変質者らしいことが解って、何だか気持ちが萎えてしまい、もう街中を散策する気もなくなった。



 だいたいどうしていつも自分は男たちの性的な凌辱対象にされるのだろう。副施設長、蟹原友宏、山崎征吾、坂戸善文。一緒に自分を拉致して山に運んだ宇羽階晃英もそうかも知れない。そう考えるとまた憂鬱な気分になってしまった。



 もう早く部屋に帰って寝てしまおうかと、大佐渡真理はブルーな気持ちのまま駐車場に向かった。



                       (続く。)




※「じじごろう伝Ⅰ - 狼病編27」でタイトル「狼病編」は、次の回で終了するという告知を書き込みましたが、この(28)で大佐渡真理、坂戸善文、森麻羅権一郎のやり取りに文章を費やし過ぎて、あまりに長くなりました。狼病編は28で終われなくなってしまいました。タイトル「狼病編」の最終回は次回(29)に持ち越します。


「狼病編28」を終わり、「狼病編29」最終回へと続く。いよいよ次回で狼病編は終了します。●小説・・「じじごろう伝Ⅰ」狼病編..(29) - Kenの漫画読み日記。




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●小説・・「じじごろう伝Ⅰ」..登場人物一覧(長いプロローグ・狼病編) - Kenの漫画読み日記。(2013年版)




※この物語は勿論フィクションであり、実在する団体·組織や個人とは全く関係がありません。また物語の登場人物に実在するモデルはいません。