Kenの漫画読み日記。

餅賢次の新旧漫画情報と懐古(郷愁)他雑感

●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)

mochi-kenji

3.


 駅前大通りを占める、この地域の一大オフィス街に一際目立つ、豪奢な15階建てビルの6階7階、全フロアに渡る、『ワカト健康機器産業株式会社』 の、広域地方地域を網羅・管轄する、中枢的総支店の本部オフィス。その6階フロアの一角にある、支店本部営業部。その営業部の中の並んだ机群の一つに、営業部平社員の、藤村敏数がデスクチェアに腰掛け、開いたパソコンモニターを眺めながら、何やら机上のノートにボールペンで書き込んでいる。


 半袖ワイシャツに弛めたネクタイ姿で、眠そうな目でモニター画面を見ていた敏数が、無意識にアクビをした。机上のノートは、上から五、六行目まで文字と数字が並んでいるが、その下の行はテキトーな走り書きだ。ボールペンで書いた渦巻きと、目鼻口っぽい顔のような落書きが並んでいる。敏数がボールペンを置いて、モニター画面を見るのを止め、軽く両手を上げて伸びをした。


 「先輩、眠そうっすね」


 端の机に座っていた在吉丈哉が、いつの間にか敏数の横に来ていて、机の上に片手をついて、敏数の顔を覗き込んでいた。


 「おう。在吉君か。何だ、君も午前中は、客回りはないのか?」


 「はい。今日は、昼から二件だけっす。先輩も昼からっすか?」


 「ああ。俺は、大手の介護施設がいろいろと、ウチの製品見たいって言うからさ。午後から、そこの責任者の人、二人連れて工場見学だ」


 『ワカト健康機器産業』 は、郊外に自社工場を持ち、その工場の一画が、自社製品の展示場ともなっている。


 「上が誰も居ないから、何かみんな、緊張感無いっすね」


 丈哉が首を回して、辺りを見ながら言った。営業部のフロアは、机に着いている者、立っている者、みんな思い思いにしていて、何となくだらだらしているようだ。課長は、始業時間になってすぐに、7階の幹部フロアに呼ばれて行って、そのまま戻って来ない。主任は客回りらしく、出先だ。係長は‥、吉川係長は、まだ出て来ていない。今現在は、営業部フロアには役付きが居らず、平社員だけで、みんな勤務時間中でも緊張感無く、ゆったり過ごしていた。


 「昨日の夜は大変だったよ。あれから家帰ったら、まるみちゃんから電話があってさあ。今から来るって言うから、もう、なだめなだめしてさあ。何とか落ち着かせて、アパートまで来なくて済んだけど、もう深夜過ぎだよ、まったく‥」


 「まるみちゃんて、藤村さんの元カノっすか。前の職場で事務員してたっていう‥」


 「あ、そうか。しまった! 失敗した‥。在吉君は、まるみちゃんのこと、よく知らないんだよな。墓穴だ!」


 「でも、知ってるっすよ。会ったことないけど、真理ちゃんの話に出て来るもの」


 「えっ!? あ、そうなのか。大佐渡君とまるみちゃんは、仲良いのかな?」


 「いいや‥。事務と現場で、普段はそんなに接点はないみたいすけど。まあ、同じ職場で働いてますからね」


 「大佐渡君は何か言ってた?」


 「え? あ、はい。城山まるみさんは、何だか最近、元気ないように見えるとか‥」


 「そうか‥」


 「でも、藤村先輩は、城山まるみさんとはきちんと別れて、今の、その、悦子さんと付き合ってるっすからね。問題ないっすよね‥」


 「えっ? どうして在吉君が、悦ちゃんのコト知ってるんだ?」


 「中村先輩に聞いたっす」


 「チキショー! あいつめ。ぺらぺら何でも喋っちまって‥」


 「そういえば中村先輩、見ないっすね」


 「達男のヤツは珍しく、仕事で出てる。主任同行の顧客が、達男の受け持ちの客なんだよ」


 敏数は、口が悪くいい加減な、中村達男に腹を立てると、年齢的には一つ年上だから、“達男” と呼び捨てになる。


 「あ、それでか。吉川係長の方は、まだ出て来ないっすね。まさか、あの例のキャバクラに泊まった訳でもないでしょうに‥」


 「どうしたんだろうなあ、係長。心配だな」


 「藤村さん、それ手離せないんすか?」


 丈哉が机の上を指差した。


 「いや。雑務だよ。仕事の事務整理だけど、別に急ぐことでもないし、たいしてやることないから、だらだらやってんのさ」


 「ちょっとコーヒー、飲み行かないっすか?」


 「喫茶店は、まずいだろ」


 「いえいえ、ノンです。フロアの廊下の奥の、喫煙コーナーの自販機っすよ」


 二人は机を離れ、廊下に出て、エレベーターホールとは逆方向に向かい、ビル端に位置する階段の、その手前に設けてある、喫煙スペースへと歩いた。喫煙コーナーには長テーブル一脚の他、長椅子ソファが幾つか無造作に置いてある。壁に面して、各自販機が五、六台並べて設置してあった。ジュースやコーヒーの他にも、カップ麺や軽食の自販機があった。丈哉がコーヒーを二本買って、敏数に一つ渡した。


 「おう。払うよ」


 「イイですよ。昨日、喫茶店出して貰ったし」


 「そうか。じゃいただく」


 敏数が、微糖缶のプルトップを引いて、一口煽った。


 「よく冷えてて、うまいな。目が覚めるよ」


 「あれから結局、例のキャバクラから、吉川係長は出て来なかったすか? それとも先輩方も、直ぐ帰っちゃったすか? まさか、二人であれから、何処かキャバクラには入ってないでしょうけど‥」


 「冗談はよしてくれよ。キャバクラなんて行かないよ。あ、そうだ。君と大佐渡君が行っちゃった、すぐ後なんだけどね。変な婆さんが、達ちゃんに声掛けて来てね‥」


 二人は、缶コーヒーを持ったまま数歩、歩いて、廊下の窓際まで行って、窓枠の桟に身体を預ける格好で、向かい合って立った。


 「婆さんすか。何か不気味っすね」


 「いや、婆さんはポン引きの婆さんみたいで、達ちゃんのよく知ってる、あの界隈のヌシみたいな婆さんなんだけど‥」


 「中村さんも、あの、夜の街のことは、よく知ってるよなあ。中村さんこそ、あそこの街のヌシっぽいけどなあ。まあ、お客さんとしてですけど」


 「そうだなあ。達ちゃんは、あの街の、夜の界隈のいろんな店に入って来てるからなあ。ウチの会社入社して、ココ配属になってからもう何年て長い間、あの街のあらゆる店に通って来てる訳だしなあ」


 丈哉が感心したように言うと、敏数も何か感慨深げに言った。


 「中村先輩、病気とか大丈夫っすかね?」


 「その辺は、達ちゃんも気を付けてるだろう。二年前からは奥さんも居ることだし。それに案外、ああいうプロの女の方が、安全だったりするんだ。プロの女って、ほとんどが定期的に検査受けてるからな」


 「へえ~。そういうもんなんすね。しかし、吉川係長はどうなんでしょうね?」


 「う~ん‥。吉川さんは心配だなあ。変わり切っちゃってるし、今日だってまだ、出社して来ないしなあ」


 「こう言っちゃ悪いっすけど、吉川係長。あんな怪しげな店通って、病気移されたんじゃないっすか? こんな言い方すると、すごく失礼なんすけど、ほら、“脳梅”とかって言うでしょ?」


 敏数が声を出して笑った。


 「確かに失礼だけど、まあ、“脳梅” はなくても、あながち遠いとも言い切れんよなあ。あんなに人間が変わっちゃったからなあ。俺は、吉川係長って尊敬してたんだけどなあ」


 「そりゃあ、元の吉川係長は、尊敬に値する上司だったすよ。仕事、正確だったし、真面目だし。部下思いな面もあったす‥」


 敏数が、窓辺から離れて自販機近くまで戻り、ソファに座った。丈哉が後を追って続き、敏数の隣に座った。


 「それで、そのおタカ婆さんがさあ‥」


 敏数が話を戻した。


 「ポン引きの婆さん、“おタカ婆さん” って、いうっすか?」


 「ああ。達ちゃんが、“おタカさん” て呼んでた」


 敏数が笑いながら、続きを話す。


 「“婆さん” て呼んだら怒るんだよ、“姉さん” って言え、ってね。ものすごい厚塗りで、真っ白な壁みたいに化粧してるけど、かなりな婆さんだってことは、はっきり解るんだけどさ。ピンクのドレスみたいの着てて、見るからに派手な若づくりなんだけどさ。幾分、腰も曲がってるし、やっぱりこう、モノゴシも年寄りなんだよ‥」


 笑いながら話す敏数の、“おタカ姉さん” の昨夜のエピソードを、丈哉も笑い顔で面白く聞いていた。


 「それで、そのおタカ婆さんがさ、俺に、『自分を買わねえか?』、みたいなことまで言い出してさ。まあ、俺たちをからかってんのかも知んないけど、それ言われた時はまったく、ゾッとして背筋に震えが来たよ」


 丈哉が、身体を揺すって爆笑する。


 「そりゃ、たまんないっすね。そんな婆ァの “たちんぼ”、買う男居るんすかね? まあ、酔っぱらってて暗かったら、解んないというのもあるカモだけど」


 「いくら “熟女好き” なんてのが流行ってる時代でも、熟女過ぎもイイトコな婆さんだからなあ‥」


 「それで、その、“おタカさん” は行っちゃったんすか?」


 「いや、婆さんがここはあたしの庭なんて言ってるし、達ちゃんが訊いてみたんだよ」


 「へえ~、“庭” ね。で、中村先輩、何を訊いたんすか?」


 「例の、吉川係長の入ってった怪しいキャバクラさ」


 「ああ、ビッチハウス。婆さん、何か知ってたんですか? うわっ、興味津々だな」

 丈哉が驚いたように声を上げて、幾分身体を乗り出した。


 「それがさ、それまで俺たちをからかうように、ニヤニヤ笑いながら何か余裕で喋ってたのが、達ちゃんがあの店のことを訊いた途端、婆さんの態度が一変してさ。笑顔が消えて、険しい顔になっちゃって。あんな店のことは知らない!、って刺々しくなって、黙って行こうとしてさ‥」


 「え? 藤村先輩たちから、立ち去ろうとしたんですか?」


 「ああ。急に不機嫌になって、背中向けてね。そうしたら、俺のケイタイに急に電話が掛かって来て。これがまた、まるみちゃんでさあ‥」


 「あはは。困ったすね。中村さんの方は、どうしたっすか?」


 丈哉は笑ったが、“おタカ婆さん” の成り行きに興味津々だ。


 「おタカ婆さん追っ掛けて、もっと聞こうとしてたけど。俺の方は、まるみちゃんが今から逢いたいなんて行って来るしで、もう大変で。取り敢えず、まるみちゃんには後から電話するって言って、これを潮時に達ちゃんにはサヨナラ言って、急いで家帰ったんだ‥」


 「じゃ、中村先輩はおタカさんのトコ、残ったんだ」


 「うん。あれから達ちゃんが、どうしたか知らない」


 「まさか中村先輩、おタカ姉さんと遊んだりしないでしょうね?」


 「それはないだろ。遊びに行こうにも、金持ってねえもの」


 二人は笑った。


 ソファに座る二人とも、とっくに缶は空になっていた。丈哉が立って、敏数の空き缶を促し、受け取って空き缶専用箱に投げ込んだ。敏数もそろそろと思って、立ったところに、経理の高山さんがやって来た。白の七分袖ブラウスにクリーム色のタイトスカート姿だが、少々お腹のあたりがキツそうに見える。“ムチムチ” とか “ふっくら” という形容の、最終ライン上にありそうな体形には、スカートが、けっこう無理をして穿いているようにも見える。


 高山さんは独身だが、そろそろ中年太りに入って来ようかという年齢で、ウェーブを掛けてやや長めに切り揃えたヘアも、普段の口煩さも、もうオバサンそのものぽい。


 「まあ、あんたたち。二人でこんなとこで油売って。藤村君も、中村達ちゃんなんかとツルんで遊びに行ってるから、サボリ癖が着いて来てるわね。駄目よ、藤村君。こんな新入社員に、サボって休むこと教えちゃ!」


 「今、戻るトコだったっすよ。それに高山さん。僕は、新入社員でなくて二年目っすよ」


 丈哉が口を尖らせて、不満そうに言葉を返した。


 「あら。そんな、一年も二年も三年も、あたしから見れば全部同じよ。若者はもっと元気出して、快活にバリバリ仕事して行かなくちゃあ。あんた、彼女が居るっていうじゃないの。退社後、遊び過ぎじゃないの。彼女とのラブラブも、程々にしなくちゃね!」


 「えっ!? どうして、そんなことまで知ってるんですか? いや、そんなことまで‥って、“彼女が居る” ってコトだけですが‥」


 「あら。中村達ちゃんから聞いたわよ」


 「えーっ! まったく余計なコト、べらべら喋って。ホントにあの人は、口が軽いんだからもう‥」


 丈哉が腹立たしさを押えて、苦い顔をした。


 「自分のプライベートなこと喋られると、烈火の如く怒り、ヒトのプライベートはいとも簡単に、周りに吹聴する。達男ってのはそういうヤツさ」


 敏数も同調して、中村達男をなじるような言い方をした。


 「あんたたち。早く戻んないと営業は係長、出て来たわよ」


 敏数と丈哉は同時に、声を上げて驚いた。


 「マジすか!? 吉川係長、今、営業のセクションに居るすか?」


 二人は急いで、仕事場へ戻ろうとした。二人の背中に、高山さんが声掛けた。


 「吉川さんもう、営業には居ないわよ。課長に呼ばれて、来て直ぐに上に行ったわ。営業課も大変ね‥」


 敏数と丈哉は顔を見合わせて、高山さんを後にして、自分らの所属部署へと戻って行った。廊下で敏数が訊いた。


 「在吉君。そういえば真理ちゃんは、あれからどうしたんだい? あの、怪しいキャバクラ見に行ったとき、随分気分悪そうだったけど」


 「ああ。真理ちゃんは、あの店の周辺から離れたら、体調元に戻って大丈夫だったす。それよりも中村先輩のコト、文句言ってたすね」


 敏数は笑った。


 「達男と大佐渡君は、かなり相性悪いみたいだな。あの後、キャバクラのことは何か言ってたの?」


 「はい。あの奥のビルの、“ビッチハウス” って店には、二度と近寄るなって」


 「ああ~、やっぱり。そういうこと、言ってたんだ」


 「藤村さんは笑い出すかも知れませんけど、真理ちゃんは、あそこには何か得体の知れない魔物が棲んでる、って言うんですよ」


 敏数は吹き出してしまった。


 「いや、ごめんごめん‥。しかし、真理ちゃんも常識的には世間一般でいう、“不思議ちゃん” みたいなもんだよな。在吉君は、そういう大佐渡君のことを、どう思ってるんだい?」


 廊下を歩いて来た敏数と丈哉は、営業部セクションに入るドアの前で、立ち止まった。


 「実は、付き合い始めた最初の頃は、“変な娘” だなあー、って思ってました。彼女には悪いんだけど、少々おかしいんじゃないか、とかね。でも、真理ちゃんと長く付き合ってる内に、解って来たんですよ‥」


 敏数は黙って聞いていた。営業部フロアに入るドアの前で、二人立ち話する格好になっている。


 「ある時、夜、一緒にドライブしてる時に、大きな通りの交差点で、突然、彼女、涙流し出したんです。『どうしたの?』 って、俺が聞いたら、『ここは悲しみの匂いがする』 って言うんです」


 「“悲しみの匂い”?」


 いつの間にか、丈哉の話し方がいつもと違い、ていねいな口ぶりになっている。敏数が、鸚鵡返しに問うた。


 「はい。そうして、後で知ったことなんですが、そこの交差点、小学生の二人組が自転車に乗ってるトコ、自動車に跳ねられて、二人とも死んじゃった事故現場だったんです。彼女と一緒に居ると、そういうコトいっぱいあるんですよ」


 丈哉の真面目に話す態度に、敏数は笑わなかった。


 「へえ~、そうか。で、在吉君はそんな大佐渡君と付き合ってて、気味悪くないの?」


 「はい、勿論。愛してますから」


 在吉丈哉が清々しくも、はっきりと答えた。敏数は、苦笑ぎみにニンマリして言った。


 「やれやれ、ごちそうさま」


 二人は営業部セクションに戻って、各々の机に着いた。正午近くになって、藤村敏数は客のもとへ行くと、社有車で出て行った。行き掛けに何処かで昼食を摂り、客を乗せて工場へ行くということだった。敏数が出て行ったのと入れ換えに、中村達男が営業課主任と共に帰って来た。調度お昼になったので、在吉丈哉は達男と一緒に、昼食に行くことにした。


 「主任誘わなくてイイんすか?」


 「主任は愛妻弁当だとよ」


 「中村先輩は弁当、持って来ないっすね」


 「ウチは共働きだしな。それに弁当なんて、カッコ悪くて持って来れるかよ」


 二人は営業部フロアから廊下に出て、昼休みの社員の流れに混ざった。多くの社員たちが、廊下中央のエレベーターホールを目指して動く。達男や丈哉の勤務する、『ワカト健康機器産業株式会社』 が6階7階全フロアを占める、このビルは高さこそ15階までだが、敷地面積がかなり広い、幅広で奥行きのあるビルだ。達男と丈哉はエレベーターを待つ間、ホールで話し合って、二階に行くことに決めた。


 このビルの地下階は、大規模な食堂街になっており、和食・洋食・中華の専門店やレストランが軒並み、二十店舗以上も連なり入っている。さらに、軽食店も何店舖かあり、このビルのテナント会社の勤め人以外の、このオフィス街近辺のあちこちのビルから来て、時分どきに利用する人たちも大勢いる。また、地下食堂街の店舗で、夜は居酒屋をやっている店も多い。


 満杯のエレベーターが二階で止まると、降りたのは達男と丈哉の二人だけだった。ほとんどの人が、地下食堂街へ行くのだろう。二階には、会社テナントも入っているが、半分以上は店舗であり、アパレルフアッション系の洋装店や紳士服店、靴専門店なども入っている。そして、軽食店も何店舗か入っており、主にカウンター主体のカレー専門店や、うどん・そば店やファーストフード店、喫茶店などが入っている。


 達男たちはカレー専門店へ向かった。地下食堂街には規模の大きいカレー専門店があるが、丈哉は二階の店の方が好みだ。二階のカレー屋はまだ混んでいなくて、空いた席が幾つもあった。この店は、表側からは全面ガラス張りの店舗で、ほとんどカウンター席だけの店だ。店内の隅っこに申し訳程度に、二席用の小さなテーブルが二つ設けられていた。二人は、楕円の半円形の、長ひょろいカウンターテーブルの二席に、並んで腰掛けた。


 エレベーターを降りた時から卒の無い丈哉は、仕事のことを達男に訊き、達男は、自分が今こなして来た、仕事の成果を自慢気に話していた。達男の受け持ち顧客の大病院が、新しく病棟を増設して建てることになったので、ついては、新病棟の内部の浴室・トイレ等々の設備や、介護・介助用の機器・器具の設置に関しての、相談やオーダーなどの話があり、建設業者も交えて、ほぼ商談がまとまったのだ。『ワカト』 のビジネスとしては、相当な大口の仕事を取って来たことになる。


 「すごいっすね、中村先輩。やるときゃ、やるっすね。さすがは中村先輩、たいしたものっすね!」


 丈哉がタイコモチよろしく、達男を持ち上げ、褒め称えた。達男は上機嫌で、相当気分が良さそうだ。


 「そりゃあ、俺も、おまえ。やるときゃあ、やるさ。いつも遊んでるよーに見えてもよォ、ここぞって時には実力を見せて、大きな仕事を取って来る。仕事にメリハリがあるんだよ。いつもいつもコツコツ、真面目に仕事やるだけの藤村との違いよォ~!」


 実際は、この大口の仕事を取って来たのは、無論、達男だけの力ではなく、同行した主任の信用や、何よりも、会社のネームバリューがあることは言うまでもない。達男は、「腹が減った、腹が減った」 と言いながら、カツカレーの大盛りを注文し、丈哉は辛口ビーフカレーを頼んだ。直ぐに、料理がカウンターに出て来た。


 丈哉はひとしきり、達男に仕事の自慢話をさせた後で、丈哉の聞きたい肝心の、“おタカ婆さん” の話を切り出した。達男は旺盛な食欲で、もりもりとスライスしたカツを口に運んで、咀嚼して行く。口をもぐもぐ言わせながら、達男が問い返した。


 「おタカ婆さん?」


 「はい。その、“ポンビキ” のおタカ婆さんが、例のキャバクラ、ビッチハウスのこと、何か知ってそうだって」


 「何だ、藤村がそう言ってたのか?」


 「はい。そうっす」


 「ところで、係長は今日出て来たのか?」


 「はい。だいぶ遅くなって、出て来たみたいっすね。11時近かったんじゃないかな‥」


 「営業の部所に居なかったな」


 「いや。それが、出て来て直ぐに、幹部フロアに呼ばれたみたいで。俺も今日はまだ、姿は見てないっすよ」


 「あー、じゃあもう危ねえな‥」


 「ひょっとして、クビすか?」


 「いや。今日午前中、俺、主任と一緒だったろう。最近の吉川さんの話になってさ。課長以上がカンカンに怒ってて、もうどう仕様も無いところまで、話は来てるらしい。主任の話じゃ、これまでの実績があるからクビにはならなくても、今の職域からは追ん出されるって」


 「何処か、小さい営業所飛ばしすか?」


 「いやいや、もっと悪い。工場の倉庫番‥」


 「げえっ! そこまで落とされるっすか!?」


 「だって仕様が無いよ。度重なる仕事上のミスに、机に座ってる時の “心ここにあらず” の態度。それから近頃、頻繁な遅刻。ヤル気の無さ。決定的だったのが、総務の江口恭子へのセクハラな」


 カレーをスプーンで口に運び、租借しながら、たんたんと喋る達男だったが、美人で評判の総務OLの名はフルネームで語った。


 「やっぱり、ひどいっすね。中村先輩の十倍、二十倍ひどいっすね」


 丈哉がついうっかり、軽口のように、冗談めかして言ってしまった。


 「何だと、この野郎! だから俺は、メリハリ着けて仕事するタイプだって、言ってるじゃねーか。やるときゃ、どーんと大きな仕事すんだよ!」


 達男が怒って、それまで静かに喋っていたのが、大声ではないが、急に荒げ声になり、カウンター内の店の人がこっちを見た。


 「解ってます。解ってますって、先輩。ちょっとしたギャグで、言ってみたんすよ。済みません、冗談でした‥」


 丈哉が深々と謝る。丈哉は 「しまった」 と思い、達男に対して軽口を叩いてしまったことを後悔した。


 「おまえ、冗談も考えて言えよ。何しろ俺は、今日は、会社貢献度特Aランクの、大仕事を取って来た社員なんだからな」


 達男が胸を張って威張り、必要以上に丈哉に威圧感を与えようとする。


 「そりゃあもう、中村先輩はウチの会社の “プラチナ社員” っすよ。今回の仕事は、我が社の屋台骨支えましたね! 俺も、こんなすごい先輩の下に着けてて、誇りに思うっす」


 「そうか。そう思ってるんなら、まあ、良いんだけどよ」


 「ところでその、“おタカ婆さん” は“ビッチハウス” のコト、何て言ってたっす?」


 丈哉が直ぐに話を切り換えた。丈哉が聞きたいのは “ビッチハウス” のコトだ。


 「ああ、あのキャバクラな。おタカさんでも 『あそこだけは止めとけ』 って、言ってたよ。何でもあの、ビッチハウスって店が入って来たのは、去年の暮れらしい‥」


 「ああ、そうなんだ。出来て半年ちょっとか」


 「ああ。店がちゃんと営業始めたのは、今年の始めからだろう、ってさ。だいたい、あそこの四階建て古ビルは、長らくテナントが入ってなくてさ。空っぽビルなんだったんだと。そう言えば俺も、あのビルの存在は知ってたが、前は通っても入ったコトないしな。ひと頃は、“幽霊ビル” なんて呼ばれたりさ」


 「“幽霊ビル” っすか‥」


 丈哉は、“幽霊ビル” という言葉に反応した。付き合っている大左渡真理にさんざん、『あのビルには魔物が棲んでいるから、絶対に近寄るな』 と言われているからだ。達男が話を続ける。


 「それでも数年前までは、小料理屋とか焼鳥屋、スナックなんかが入ってたらしいんだけどな。みんな潰れちゃって、しばらく空きビルだったものらしい。まァ、場所が悪いやな。歓楽街でも外れだし、ひと頃は “たちんぼ” も居たが、今はそういうのも居ないんだと」


 「それみんな、“おタカ婆さん” からの情報すか?」


 「おう。シャッター閉まったビルの、上がり口階段に腰掛けてな。おタカさんが 『お茶おごっとくれ』 って言うからさ。自販機でペットのお茶買ってな。二人で座り話したんだ‥」


 「へえ~、何か、中村先輩も良いトコあるっすね」


 「おうよ。俺は本来、根は優しいんだよ。優しくねえと、女にゃモテねえからな」


 「それで、現在の “ビッチハウス” はどうなんすか?」


 「おまえ、いやに興味津々だな」


 「いや、何しろ、ウチの係長の関わってるコトですからね」


 本当の第一の理由は、やはり恋人の大左渡真理の言葉や態度に影響されて、オカルト的好奇心から興味を持っていた。しかし丈哉は、達男がことさらに真理を嫌っていることがよく解っているので、真理の名前を出すことはやめていた。


 「ああ、そうだな‥。それで、二、三年空き家だったあのビルに、去年の暮れくらいに突然、ビッチハウスが入ったらしいんだ。あのビルに入ってるのは総て、ビッチハウスの関係らしいな。何でも、キャバクラの他にバーみたいな店と、何か事務所みたいのがあるらしいんだな。それで、ボーイかウェイターみたいな男が居て、時々呼び込みみたいなコトやってるんだって。おタカさん、この男に邪険に扱われて、追っ払われたんだと。おタカさん、ひどく怒ってたよ‥」


 達男は長話を続けながらも、手と口は忙しく動かしていたので、カツカレーの大盛りもあらかた、たいらげていた。グラスの冷水をごくごくと飲んで、また話を続ける。


 「それまで、あの付近にゃ深夜、“たちんぼ” のお姉さんが何人か立ってたんだが、みんな追っ払われたんだって。それでな、その “たちんぼ” の中に、おタカさんに優しくしてくれる、比較的歳の若い、気の優しい街娼が一人居たんだが、この女が今は、ビッチハウスのホステスの一人になってて、しかも別人みたく、人が変わっちゃったんだってさ。おタカさんに冷たくなってしまって、『あんたなんか知らない』 って言うって話なんだ‥」


 丈哉も、達男の話を熱心に聞きながらも、辛口ビーフカレーを食べ続けている。丈哉がごくごくと冷水を飲んだ。食べるピッチは達男ほど早くはないが、注文した料理が量的に少なかったので、二人とも調度、同じくらいで皿が空いた。


 「“人が変わった” ってのは、妙な符号ですね。あそこに出入りしてるらしい、吉川係長も人間がすっかり変わっちゃってるし‥」


 丈哉は驚きを隠せなかった。達男から “おタカ婆さん” からの情報を聞くと、ビッチハウスがますます怪しく思えて、興味は尽きない。


 「先輩、他には何か言ってなかったんですか? その、おタカさんは‥」


 「おまえ、本当に “ビッチハウス” に興味津々だな。そんなにあのキャバクラが気になるのなら、一緒に行こうか? ただし、資金はおまえ持ちになるけど」


 「いや、イイっすよ。気にはなるけど、不気味だし‥」


 「うん。おタカさんもな、あの店には行かない方がいい、って行ってた。呼び込みのボーイもだが、別のホステスらしい女も、何か “変” なんだと」


 「そうっすか。じゃあ、キャバクラ自体は、流行ってはないですね。吉川さん、どうしてそんな店に入ったんだろ? 他にはおタカさんは何か、言ってなかったんですか?」


 「おまえも好きだね。軍資金がありゃあ、俺が冒険して来ても良いんだけどな。俺もあの界隈で行ったコト無いキャバクラなんて、あのビッチハウスくらいだからな。まあ、中の女はあんまり期待は出来ないだろうけど‥。あ、おタカさん、か。いや、おタカさんは、あんまりしつこくビッチハウスのコト訊くと、不機嫌になるからさ。それ以上は入って見ねえと解らねえよ」


 食べ終わって、一杯づつ、グラスに冷水を貰って一気に煽ると、二人は別々に料金を払って、スタンド仕様のカレー専門店を出た。


 二人は、二階のエレベーターホール目指して歩き、エレベーターホールの隅に長椅子ソファが幾つか並べられ、大型のテレビが置かれている場所の前で、何気なく立ち止まった。長椅子ソファには、中年のサラリーマン氏らしき男が一人座って、缶コーヒーをうまそうに飲みながらテレビを見ていた。他にはソファの周りに、二、三人の男が立ち、同じようにテレビ画面を眺めていた。


 「先輩、事務所戻ります? それか、お茶でも飲み行くっすか?」


 丈哉が達男の方を見て尋ねると、達男はテレビ画面を見ていた。テレビではニュース番組をやっていた。達男が画面を喰い入るように見ていた。


 「あれ? これ、あの歓楽街じゃないっすか」


 丈哉が間の抜けたような声で言った。テレビ画面には確かに、昨夜、藤村敏数と中村達男と、それから後で真理も一緒に行った、ここから近くの歓楽街の、今の昼間の様子が映し出されていた。丈哉も黙って画面を見ていた。その内、アップで老婆の顔写真が映し出された。


 「あっ!」


 達男が小さく叫んだ。画面を喰い入るように見る達男の表情が、放心状態のように見える。ニュースの解説では、アナウンサーが 「昨夜未明、老婆が野犬に咬まれて重症」 と繰り返していた。老婆の顔写真のアップからまた、歓楽街界隈の通りの風景に戻り、すぐにスタジオのキャスターに切り換えられた。男性キャスターが女性キャスターに、「早く保険所に野犬を探し出して、捕獲して欲しいですね」 と語り掛け、女性キャスターは 「そうですね」 とだけ返事して、次のニュースを読み上げ始めた。


 呆然として黙っている達男に、丈哉が呼び掛けた。


 「中村先輩。どうかしたんですか?」


 「おタカさんだよ‥」


 「はい?」


 「だから、犬に咬まれて重症、っておタカさんなんだよ! 今のテレビの被害者の写真‥」


 丈哉も驚きでしばらくは声が出なかった。





 

※ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)へ続く。●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4) - Kenの漫画読み日記。












 

◆(2012-08/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(1)
◆(2012-09/07)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ 」 狼病編 ..(2)
◆(2012-09/18)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(3)
◆(2012-10/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(4)
◆(2012-10/28)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 狼病編 ..(5)