●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(10)
10.
蒲団を跳ね上げて飛び起きた。昨夜寝る時は、パジャマ姿のまま何も掛けずに寝入ったが、夜中に寒くなり、無意識の内に畳んだ夏布団を被っていた。よくあることだ。朝方一度、目覚め掛けたのはぼんやりと記憶している。この時さらに、まるで潜り込むように頭から蒲団を被ったようだ。枕元の目覚まし時計が差している時間は、大変な時間だ。スイッチのボタンを押して止めてある。鳴り始めた時、多分、無意識の内に止めてしまったのだろう。
ぼんやりと記憶にある、一度目覚め掛けた時は、誰かに声掛けられていたような気がしていた。そうか、その時、目覚めを拒否し蒲団を頭から被ってしまったのだ。大変な時間だ。急いでパジャマを脱いで下着姿になり、壁に上下で吊るして掛けてあるセーラ服を降ろした。鞄の中の教科書類は昨夜揃えている。実は、昨日の午前中の英語と数学の授業で出された宿題をやっていない。昨日の気分は、宿題や授業の予習をやるどころではなかった。あれから、夕食後や就寝前も弟と少し話をした。その後は、部屋で深夜まで一人考え続けていた。
制服に着替えて鞄を持つと、部屋から飛び出て慌ただしく階段を降りた。リビングから続くダイニングでは、キッチンに母・智美が立っていた。愛子は朝方一度、誰かが自分を起こそうと声掛けたのはぼんやりと記憶してはいるが、一応母親に文句を言った。
「お母さん、どうして起こしてくれなかったの! もう、こんな時間じゃない。学校、遅刻だよ」
キッチンで洗い物をしている智美が振り向いた。
「起こしに行ったでしょ、和也が」
ああ、あれは和也だったのか。起床の声掛けを無視・拒絶して、再度寝入った自分が悪いと思いながらも、母に言い返した。
「和也じゃ駄目だよ。あいつは優しいから」
母親は少々怒りモードになって、キツい言い方で応えた。
「何言ってんのよ! 中学二年にもなって、自分で朝起きれないで。和也は、何度呼んでも起きないから、身体を揺すったって言ってたわよ」
愛子は、はっと思った。身体を揺すられたなんて全く覚えていない。一度、目覚め掛けたが、即寝入ってしまったようだ。どう反論しようとも自己弁護を考えようとも、これは全面的に自分が悪い。愛子は、バツが悪く思ったが母に謝ることなく、食卓の上を見た。トーストやハムエッグ、コーヒーなどが二人前用意されてある。自分と母親の分だ。和也は朝食を済ませて、登校に既に家を出てるようだ。
「お父さん、昨日帰って来なかったんだ?」
愛子の問い掛けに、智美の返事はない。一呼吸置いて、智美が言った。
「早く御飯食べて行かないと。時間、大丈夫なの?」
「あ、いけない!」
愛子はドタドタと駆けて玄関まで出て、急いで自分のスニーカーに足を突っ込む。
「ねえ、食べないで行くの?」
台所からの智美の問い掛けに、 「いらない」 と、愛子は大声で返事して、玄関ドアを開けて戸外へ飛び出した。
そしてそのまま、住宅街を小走りで駆け出した。市立中学校は自転車通学は禁止されている。愛子は、小走りでひたすら走った。このまま走っていけば、ギリギリ間に合うかも知れない。橋を渡り終わった。中学校の正門までは、あと一キロもない。これまで、中学の生徒には一人も合わない。やはり自分が一番遅いのか。
ふうふう息を切らせて走って来た自分の前に、一人だけ男子の学生服姿が見えた。この時刻なら全力で走らないと遅刻するのに、のんびりのんびりと歩いている。もう少し近付くと、後ろ姿に見覚えがある。駆け寄ると、やはり武田虎太だ。愛子は武田虎太の背中に追い付くと、バシンと背中を叩いた。驚いて振り向いた虎太は、吉川愛子の姿を認めると声を上げた。
「なんだよう、痛えなあ」
急に立ち止まった愛子は、ハアハア・ゼイゼイと息を切らせ、腰を追って膝に手を衝き、荒い呼吸をしている。虎太も立ち止まり、苦しそうに息を切らせる愛子を見詰めながら、のんびりした雰囲気のまま言った。
「おまえ、家から走って来たのかよ。すげえな。でも、もう間に合わねえよ」
まだ荒い息を衝き、愛子はキツそうに、途切れ途切れになりながら応える。
「いや、ここから全力で走れば、ギリギリゴールできる。走ろう、虎ちゃん!」
「ええーっ。無理だよ。諦めろよ吉川。何か今日おまえ、テンション高いのな。どうしたんだよ、昨日の帰りと大違いじゃんかよ」
虎太が、驚き顔で言った。
「まあ、昨日は昨日、今日は今日よ。あたしは行くよっ!」
愛子は虎太を追い抜き、また走り始めた。出せる力を出しきって校門まで来ると、何人かの生徒が急いで校門を抜けようとしているところだった。
校門の両脇には、一人の男性教師と何人かの生徒たちが立っていた。生徒たちは生徒会の風紀委員だ。今朝の当番の先生は、コワモテの体育教師だ。愛子はラストスパートを掛けて校門を駆け抜け、急ぐ二、三人の生徒と共に校内へと入って行った。
「こらっ、遅刻だぞ」
男性教師が怒鳴る。駆け抜けた一人の男子生徒が言葉を返した。
「先生、ギリギリセーフですよ!」
腕時計をした片手を振り上げる。
「馬鹿っ、おんなじだ! 30分早く来るように心がけろ」
体育教師がもう一度怒鳴った。愛子は、もっと遅れてやって来る武田虎太のことを気の毒に思った。呑気にふらふら歩きながら、さらに遅れて入れば、今朝の体育教師にみっちり絞られるだろう。虎太も運が悪い。
教室に入ると、ピー子が飛んで来た。
「昨日はどうしちゃったのよォ~、愛子。まるで逃げるみたいに、一人でさっさと帰っちゃってさあー」
大仰に、半分本当に心配そうにピー子が訊いて来る。
「ごめ~ん。どうしても急いで家に帰らないといけない用があって。母さんが家で待ってたの」
愛子は嘘をついた。しかし、急いで家に帰りたかったのは本当だ。気が付くと、真央が傍らに来て心配そうな顔で見ていた。
「昨日は愛子、昼休みから何か、おかしかったでしょー。あんな部室なんかに内鍵掛けて、一人で閉じ籠っちゃってさあ。そうしたら午後から、全校早退言われるし、あの事件でしょー。救急車やらパトカーやら来るし。もう、何だか解んなくって。愛子は大丈夫なの?」
ピー子が、一気に捲し立てるように喋り、心配そうに愛子の顔を覗き込んだ。
「う、うん。大丈夫だよ」
愛子は焦りを感じて、ドギマギしながらも笑顔を作って答えた。相変わらず心配そうに、こちらを見ている真央にも笑顔を向けた。ピー子は続けて喋る。
「あのね、あたしが家帰ってからさ、一組の虎太から電話があったのよ。吉川の様子が変だって」
愛子は驚いた。昨日あの後、武田虎太はピー子に電話していたのだ。昨日の自分は、元クラスメートの異性の同級生に連絡するほど、ふだんとは様子が変だったのだろうか。愛子は焦りの中にも、少し恥ずかしい気持ちも出て来た。
「昨日のあたしって、そんなに変だった? ピー子も真央も、みんなごめん。もう大丈夫。いつもの私だから」
真央の他にも二人くらい、クラスメートの女子が寄って来ている。愛子は、ことさら明るく振る舞って言い、周囲の笑顔を誘った。ピー子が、愛子に向かって、昨日の午後の騒動について知っている情報をいろいろと話してくれた。愛子は自分の机に鞄を置き、ピー子の話を興味深げに聞いていた。二人の周りには真央も含めて数人が集まり、井戸端会議状態になっていた。みんな、昨日の騒動の内容はあらまし、だいたい知っているようだ。
ピー子やみんなが持ち寄る情報によると、昨日の昼休みの時間中、校舎裏手の倉庫やゴミ焼き場付近で何が起こったのか、原因は、はっきりとは解らず、二年二組の男子が七人、大怪我をして七名全員が病院へ救急搬送された。怪我の軽いものは手当てを受け、その日の内に帰ったが、何人かは重症でそのまま入院したらしい。学校にパトカーが来ていて、刑事や警官が校舎裏手付近をうろうろ回っていて、刑事が職員室で、校長や二組担任の先生としばらく話をしていたらしい。
生徒が搬送された病院へも、刑事が事情聴取に行ったということだ。そして被害にあった七名全員が、二組の西崎慎吾ら不良グループのメンバーだということだ。それと、不良グループ七人の他に現場に、同じ二組の後能滋夫がいた。このことからみんなは、多分また、西崎らグループが気弱な後能をひとけのない校舎裏に連れて行って、集団苛めを行っていたのだろう、と思っていた。
それで、みんなが一様に不思議だと驚いているのは、いつも苛め被害にあっている後能滋夫だけが唯一、無傷な状態なのだ。だから、西崎ら、そこに居た不良グループのメンバー全員はすぐに病院へ搬送された訳だが、後能だけは、身体に特に異状はないということで学校に残り、先生や刑事から事情聴取を受けた。
最初、後能滋夫は状況を先生や刑事に話すことにより、そのことでまた、西崎らにひどいリンチを受けることを恐れ、黙ったままでなかなか話し出さなかったが、刑事の威圧感と執拗さに負け、ぽつぽつと自分の知っていることを話し始めた。そして語ったことによると、後能滋夫自身は集団苛めにあっている最中で、正座しているところを、取り囲んだグループのみんなから頭を小突かれ身体を蹴られしている内に、地面に塞ぎ混み両腕で頭を抱えて亀のように丸くなっていた状態のままだったらしい。
だから後能滋夫は、いったい何が起こったのか全く解らないということだった。亀になった状態で、頭を抱えしっかり目を瞑って蹴られる攻撃に耐えていたら、急に蹴りが止んだ。固く目を瞑ったままでいたが、周囲でドタドタと続けざまに物音がする。物が地面に落下する音や、壁板にぶち当たるような音。フェンスに物が当たる音。やがて、周囲から幾つもの呻き声が聞こえて来て、そこで初めて目を開けて、そおーっと頭を上げると、正に今まで自分を苛めていた連中が全員、地面に転がって呻いていた。顔中、血まみれで頭を抱えて呻いている者や、泣き声を上げている者もいた。
後能滋夫はとにかく驚いた。いったい何が起こったのか、どう考えてもさっぱり解らなかった。ただ、地面に伏して亀状態になっていたとき、頭上でビュンビュンと風がうなる音か、風を切るような音がしたのは覚えていた。驚愕の気分が覚めて来ると、今度は怖くなって来た。しばらくは、得体の知れない恐怖感で、震えて動けなかったそうだ。後能滋夫は、刑事の事情聴取に、自分の知っていること解ることは全部話したが、七人もの男子学生が秒単位のわずかな時間で、入院者を出す程の大怪我をした理由は、後能自身にも聞いていた刑事にも、さっぱり解らなかったそうだ。
後で、病院に運ばれて治療を受け、比較的軽傷で、刑事の事情聴取に応じられる者に話を聞いたが、何かに弾き上げられたとか足元を掬われたようだとか、あやふやな回答しか得られなかった。刑事が、「何か」 とは何かと問い質しても、一様に 「解らない」 「何も見えなかった」 と、答えるだけだった。
生徒たちはもう、ここまでのことを情報として得ていた。病院で治療を受けて帰って来た、不良グループ・メンバーから話を聞いた者も居るのだろう。この不可思議な事件に生徒たちは皆、興味津々だった。生徒たちの情報ネットワークは早い。実は、自分の席に座ったまま聞いている愛子は、周りに集まったピー子たちクラスメートが教えてくれる話の内容は、ほとんどのことがよく解っていた。クラスの中では多分、実情は一番良く知っていたろう。何故なら、現場をリアルタイムで見ていた訳だから。地面に伏して、丸く亀のようになっていた後能君よりも、自分は良く知っている。
愛子は、刑事の事情聴取などを、受けなくて済んでいることにホッとした。
ピー子が愛子を見て 「どうしたの、愛子?」 と、怪訝そうな顔をして聞いた。
つい顔に、ホッとした安堵の表情が出てしまったらしい。
「ううん、何でもないよ」
愛子は、総てのことを知らぬ存ぜぬで通すことにして、ピー子やクラスメートの話すことを初めて知る話のように装った。驚いて見せたりして多少演技も入れた。ピー子など親友にも隠すのは悪い気もしたが、そうするのがベストだと思っていた。あの、白い大きな犬、ジャックのひと睨みの恐怖効果も、まだ愛子の中には残っていた。愛子はやはり、あのスーパードッグは怖かった。
だが、ピー子は何処か疑っているのか、「どーも、昨日から愛子は少し変なのよね‥」 と、愛子を睨んで見せた。
朝のホームルーム開始チャイムが鳴ったが、しばらくしても担任が来なかった。やがて全校放送が流れて、今から緊急に臨時朝礼を行うので、生徒は全員体育館に集合するようにとのことだった。
体育館では、校長と教頭から、昨日の二年生・七名の集団傷害に関しての話があった。現在のところ、はっきりした原因が解らず、事故と事件の両方から調べている最中とのことだった。教頭からの話で、事故として見た場合、原因の一つの可能性として、竜巻のような突発性の突風がごく限られた空間で発生し、生徒たちを巻き上げたのではないかということだった。
三番手に登壇した二年の学年主任から、この件に関しての当分の、禁止事項や注意事項の指示の話があった。それによると、第一に、当分の間は生徒は現場付近には行かないこと。現場の倉庫裏区域は、当分はロープを張って立ち入り禁止にするらしい。用務員さんも当分の間、宿舎寝泊まりを控えるということだ。また、校内で出たゴミは別の場所に臨時ゴミ集積所を設けるらしい。それと、事件性の有無がはっきりするまでは、校舎裏手を中心に刑事や警官が校内を回ることがあるとのことだった。
整列して並んだ全校生徒は、黙って話を聞いていた。二年四組の列の後ろの方で話を聞いていた愛子は、実際は現場の目撃者であり、この騒動のはっきりした内容を知っているので、少々可笑しくもあり笑い出しそうにもなったが、もしも、唯一の目撃者であることがバレて刑事にでも事情聴取をされたら、大変なことになると思い、笑顔を消して神妙な面持ちになった。しかし、自分だけが真実を知っているのだ、という、あまり根拠の無い何か優越感のような気持ちもあった。ふと、気付くと傍でピー子が自分の顔を眺めていた。思わずほんの一瞬だけ、ニヤリとしてしまった愛子の表情を見逃さず、ピー子はまた怪訝な顔を見せた。
やがて、臨時朝礼も終わり、そのため一時限目は犠牲となり、二時限目の科目から通常通り授業が行われた。休み時間などは、生徒たちは昨日の事件か事故かの噂話でもちきりだったが、結局、これといった確信に触れた情報はなく、ただ出尽くされた情報一つ一つをあれこれ言い合っているだけだった。あとは、校舎裏手を刑事らしきオジサンが歩き回っていたとか、警官がもう一度現場検証していたとか、そのような話が断片的に出るだけだった。特に真新しい情報は、誰からも出て来ない。
また、クラブ活動が中止になったのは、事件・事故当日の昨日一日だけで、この日から放課後のクラブ活動は再開された。愛子は、三年生の女子バスケ部主将に申し出て、頭痛めまいと体調不良を訴えて、部活を休んで帰宅した。同じバスケ部のピー子が、心配そうにというよりも何か怪訝な表情で、ユニフォームに着替えることなく制服姿のまま、部室を出る愛子を見送った。ピー子は、疑念の目で愛子を見ていた。それは、愛子が親友の自分に隠し事をしているように思える、という不満もあった。
愛子は学校を出て、通学路を真っ直ぐに家へと急いだ。
帰宅すると、弟・和也が野球のユニフォームを着て、ダイニングのテーブルに座りサイダーを飲んでいた。母・智美はパートの仕事からまだ帰って来ていない。和也は、少年野球のコーチのお兄さんが、自動車で迎えに来てくれるのを待っているのだ。
コーチのお兄さんは岡石浩司という名前で、本来は市郊外の先、郡部のちょっとした山間地に立つ、私立大の大学院に通う学生で、学校に行ってない時やアルバイトのない時に、この地域の少年野球チームのコーチ役を引き受けている。中古の大型のワンボックスカーを持っていて、コーチをやる時はたいてい、少年野球チーム・メンバーの子供たち何人かを、家を巡回して車に乗せ、練習場の市民公園グランドへと向かう。和也はコーチのお兄さん、岡石青年が車で拾いに来るのを待っていた。
愛子もサイダーを冷蔵庫から出してコップに注いで、テーブルを挟んで和也の前に座った。昨日は、和也が帰って来てから二階の部屋でしばらく話し、夜も、就寝前に一時間以上も二匹のスーパードッグに付いて語り合った。
和也は、最初は姉には、なかなか、和也の知っているスーパードッグに関する情報は教えようとはしなかった。愛子はしつこく粘って、和也から何でもいい、とにかくスーパードッグに関することを聞き出そうとして、和也も最後は根負けし、ぽつりぽつりと話し始めた。先ずは、二匹のスーパードッグには名前があり、犬としてはありふれた名前でハチとジャックというらしい。茶色の小さな中型犬がハチで、大きな白い日本犬がジャック。どうして和也には名前が解ったのかは、最後までとうとう喋らなかった。
公園の森で首吊り自殺をしようとした後能君を、ロープを切って救ったのはハチなのだそうだ。また、ハチというスーパードッグは、癒しの力というか不思議な力があり、自殺をし損ねた後能滋夫が泣きじゃくり興奮状態にあったのを、後能の顔を何度か舌でペロペロと嘗めただけで、後能滋夫は泣くのを止め、落ち着きを取り戻したのだという。
また、二週間くらい前に、和也が隣家の高校生、本田義行と一緒に公園の森に行ったとき、通り魔の突然の襲撃に合ったが、そのときに助けてくれたのも、どーもハチが救ってくれたらしいのである。その折、隣のお兄ちゃん、柔道二段の本田義行が不意を衝かれてスタンガンを頸動脈に当てられ、失神してしまったが、その後に、本田のお兄ちゃんの息を吹き返させたのもハチの力だったらしい。
ただ、通り魔自体を伸びさせてしまったのは、ハチだったのかどうなのか、またどうやって通り魔をやっつけたのかが、どーも和也の説明があやふやではっきりしない。愛子には、何だか和也がそのことに関しては喋りたくない、ようにも取れた。何度訊いても、その折の、和也の説明はあやふやではっきりしないのである。
まあしかし、和也の話と、自分が昨日、実際に目撃した現場で、二匹のスーパードッグが途方もない身体能力や不思議な力を持っていることが解った。そして、彼らは自分たちの存在が、公に知られてしまうことをことさら嫌っている。この世の中の、影の部分に隠れていたいのだ。
愛子は、二匹のスーパードッグのことを知る内に是非とも、もう一度スーパードッグに会いたくなった。会話の終盤、愛子は和也に提案した。和也が、自殺しようとした後能君がハチに助けられたときに偶々巡り合わせたのは、和也がスーパードッグに差し入れのハンバーガーやフライドチキンを持って行った折りだ。和也自身には、一度ならず助けて貰ったお礼の気持ちもあったのだろう。愛子も、最初に通り魔に襲われたとき、ジャックに助けられている。昨日は、二匹が、あの後能君を集団苛めから救い、不良グループを懲らしめた現場を目撃もしている。愛子は勝手に、自分はスーパードッグに強い縁があるのだ、と思い込んでいた。
愛子は、今度は私と二人で差し入れを持って、スーパードッグに会いに行こう、と和也に話した。しかし和也は、その提案を嫌がり、乗り気でなかった。昨夜は、和也はとうとう最後まで承諾の返事はしなかった。今、愛子は真向かいに座り、コップのサイダーを飲み干し、そろそろコーチのお兄さんが自動車で迎えに来る頃ではないかと、柱の掛け時計を見て、時刻を気にしている和也の顔を直視した。
和也は下を向いてしまい、姉の視線を避ける。
「ねえ、和也。昨日言ったようにさ、あたしが今度は差し入れ持って行くからさ。あんたは野球の練習が終わったら、みんなが帰るまで残ってるの。いい? 母さんには、あたしが和也を迎えに行くって言うからさ」
愛子の話に、和也は下を向いたまま黙っている。愛子の提案には、あまり乗りたくない様子が見え見えだ。
「あたしが自転車で迎えに行って、チームメイトもコーチもみんな帰ったら、二人で差し入れ持って森の中の遊歩道行ってみよ。ね? 大丈夫だよ。陽が落ちる前に帰れば良いんだから。荷物少なくすれば、自転車、二人乗りで帰って来れば良いし」
愛子はテーブルに身を乗り出し、和也の顔を覗き込んで、熱心に説得するように話す。
「実はね、母さんにはね、あたしもう電話で話してあるの。今日はあたしが和也を迎えに行くから、お母さん、何か用事があったらそっちに行ってオッケーだからって。学校帰り掛け、母さんの携帯に電話して話してあるから。大丈夫だよ、和也」
和也は困ったような、当惑した顔をしている。態度がはっきりしないままだ。和也は、昨夜は一度はそれは嫌だ、とは断ったのだが、姉がどうしても一緒にスーパードッグに会いに行こう、と言ってきかないでいるのだ。愛子は何が何でも自分の思いを通したい。姉・愛子との力関係から、和也もそれ以上は、はっきりと拒絶できずにうやむやになってしまったままなのだが、このまま姉・愛子の実行で押しきられてしまいそうな雰囲気だ。和也もしぶしぶ仕方がないか、という気持ちになりつつある。愛子が実行すれば、和也にはもう止められない。
玄関でチャイムがなった。岡石コーチのワンボックスのワゴンが迎えに来たようだ。和也が、愛子から逃げるように玄関へ走って行く。玄関を開けると、少年野球チームの同級生メンバーの池田君が立っていた。コーチのお兄さんはワゴンの運転席に居るらしい。和也は、小さなバッグを一つ肩に掛けて、池田勇人君と一緒に玄関先のスチール門から出て行った。愛子が廊下の上がり口からサンダルで玄関まで降りて、ドアを開けたままワゴンを見送った。運転席の岡石青年が手を振って挨拶した。
車が行くと愛子はドアを閉めて、二階へと上がった。制服のままだったので、部屋でジーパンと薄紫色の長袖プリントTシャツに着替え、自転車に乗るからバックパックにするかショルダーバッグにするか迷ったが、少し大きめのチェック柄のショルダーバッグを手に取り、階下へと降りた。リビングから家の固定電話で、母親の携帯を呼び出した。呼び出し音が鳴ってしばらく待ったが、母・智美が出ることはなく、留守番電話サービスに繋がった。愛子は、今から自転車で街に出て友達と落ち合い、少しぶらぶらしてから夕方、市民公園に和也を迎えに行く旨を吹き込んだ。友達と落ち合うというのは嘘だった。もう一つ、先程、下校途中で自分の携帯から掛けた電話で言った、今日も放課後部活が中止になった、というのも嘘だった。愛子は、母・智美に何度も嘘をついて悪い気がした。
ぼつぼつ出掛けようかと廊下に出たとき、家の前で自動車の止まる音がした。玄関先まで行って、まさかとは思ったが、しばらく待つと玄関ドアを開けて母が入って来た。愛子がびっくりして声が出ないでいると、母・智美が愛子の顔を見るなり喋り出した。
「今行くとこなの? 間に合って良かったわ」
言いながら、靴を脱ぎ、両手に荷物を提げたまま廊下に上がった。驚き顔の愛子の横を擦り抜けつつ、続けて話す。
「愛子、ちょっと来て。渡したいものがあるのよ」
智美はダイニングまで行くと、テーブルにバッグや紙袋やスーパーのレジ袋をドサドサと置いた。今日の智美は、薄いピンクの七分袖ブラウスに、クリーム色の綿のクロップドパンツを穿いていて半分脛が覗いている。智美はこの春、和也が三年生に進級した折、肩まであった髪をばっさり切ってショートにし、それ以前に比べると幾分若返ったように見える。
愛子は、母親のスマートな格好を見て、「あたしもオシャレしなきゃな」 と思った。
智美は、テーブルの上から紙袋を取り上げて、ゴソゴソと中のものを取り出した。真っ黒くて重量感ありそうな、棒状のものだ。全長30センチ以上ありそうで、まるで、真っ黒い重たいスリコギみたいだった。短刀みたいに、片手で持つ柄の部分がある。智美は、愛子の方に向けて構えて見せた。
愛子はポカンとした顔で問うた。
「何、それ?」
智美は、幾分ニヤリとしたように見えた。
「スタンガンよ」 冷静な口調で答える。
愛子は驚いて叫ぶように言った。 「スタンガン?」
「そう、スタンガン。だって、こういうものでも持って護身しなきゃ危ないでしょ。あんた昨日、中学校の校内でも、生徒が七人も原因不明の大怪我したって言うじゃないの。今日、職場でニュースになってて、聞いてびっくりしたわよ。和也は通り魔に殺されそうになったし、とにかく市民公園とかヒトケの無いとこ行くときは、こういうもの持ってないと駄目。防犯ブザーなんて、寂しい場所じゃ役に立たないもの」
智美が一気にまくし立てた。
「スタンガンて何かこう、クワガタムシのでかいのみたいな、重たそうなヤツじゃないの?それ何か、通販で売ってる特種警棒みたい」
智美の手にする黒い棒状の物体は、長さが30センチ以上はありそうで、握りも直径4センチ近くありそうでけっこう太い。真っ黒くて見るからに重量がありそうだが、 「軽いのよ、これ」 と、智美が肩まで上げて二、三度振って見せた。
「スタンガンでも、バトンタイプっていうヤツらしいの。金属製じゃなくてね、本体は強化プラスチックで出来てるんだって。だからあんたが言うように見掛けは警棒みたいだけど、あくまでスタンガンであって、物を叩いたりすると本体が壊れちゃうんだって」
「ふうん。でもお母さん、こんなものいったいどうしたの?」
「職場にね、同僚の人でね高橋さんて、あたしより幾つか年上の奥さんが居るんだけど、娘さんが年頃でね、去年短大出て就職したんだって。それでね、駅からの帰り道が暗くて寂しい道のりだからって‥」
「あーもう、解ったお母さん。さっきも電話で言ったように、あたし友達と待ち合わせてるから。だから時間ないし、もう行くから」
これは嘘だった。愛子は市街地へ一人で、スーパードッグに上げる差し入れを買いに行くつもりなのだ。
「ちょっと待ちなさい。ぶっそうだからこれ持って行くの!」
母親・智美が、怒ったような強い語調で言った。娘が心配なのだ。帰り道は一緒の、まだ幼い和也のことも。
「いいよ、大丈夫だよ母さん。市民公園の周りはパトカーが巡回してるし。あの通り魔が逮捕されてから事件なんて起こってないし。昨日の中学のことだって、事故かも知れないって言ってるんだもん。怪我して病院行ったヤツらって、七人全員が札付きの不良グループのメンバーだったんだ。きっと天罰だよ」
愛子は言って、“天罰”という言葉は、実はまんざら間違いではない、と思った。
「駄目。何が起こるか解らないんだから。それに帰りは和也を連れてるんだし。持って行きなさい」
母親の頑として譲らない態度は厳しい。
「はいはい。もーう、解ったわよ。貸して、母さん。バッグに入れて行くから」
「そう。じゃこれ。それから、これは外箱。取扱い説明書が入ってるから、使い方よく読んどくようにね」
智美が紙袋から別に、細長い箱を取り出して、テーブルに、愛子の前に置いた。
愛子は、脇のショルダーバッグのファスナーを開けて、細長のスタンガン本体を突っ込み、 「外箱でかいよ。入るかな」 と言いながら、バッグの口に箱を当ててみていた。
「じゃ。和也を頼んだわよ。私は会社に戻るから」
「え、仕事戻るんだ?」
「うん。何か急ぎでね。所長さんに頼まれちゃって。たまには仕方ないわね。アテにされちゃってて。デキる女は辛いわよ」
「やっぱり、箱は無理だあ。トリセツだけ持ってく」
愛子は、箱からビニールに入った取扱い説明書だけ取り出して、外箱はテーブルに戻した。
「じゃ、急ぐから行くよ」
「あたしもすぐ出るわ。和也のことはお願いね」
「うん、解った。ねえ、母さん‥」
「え、何?」 キッチンの方を向こうとした智美が、慌てて振り返った。
「お父さん、昨夜とうとう帰って来なかったでしょ。今日何か連絡あったの?」
母親の返事はなかった。智美の表情が暗く重たいものに変わった。俯いた顔からは唇を噛み締め、怒りの感情も感じられる。
「あ、ごめんね、母さん。じゃ、行って来るね。大丈夫、和也のことは心配しないで!」
愛子は焦りながらもバッグを肩に掛け、廊下を駆け出し、玄関のスニーカーに足を突っ込み、元気良く玄関ドアを開けて戸外へ出て行った。
※ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(11)へ続く。●小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(11) - Kenの漫画読み日記。
◆(2012-01/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(1)
◆(2012-01/19)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(2)
◆(2012-01/26)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(3)
◆(2012-02/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(4)
◆(2012-02/10)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(5)
◆(2012-03/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(6)
◆(2012-04/02)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(7)
◆(2012-04/25)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(8)
◆(2012-06/01)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(9)
◆(2012-06/16)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(10)
◆(2012-07/06)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(11)
◆(2012-08/04)小説・・ 「じじごろう伝Ⅰ」 長いプロローグ..(12)
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